2026.8.16 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教要約
イザヤ書 56章1節、6~7節
ローマの信徒への手紙 11章13~15節、29~32節
マタイによる福音書 15章21~28節
本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
イエス・キリストが、弟子たちとともに旅をなさいました。今回イエス・キリストが行かれたのは、ティルスとシドンの地方ということです。これは地図をごらんになるとわかるのですけれども、地中海に面した町です。ここはいわゆる異邦人と呼ばれる人たちが住んでいたところです。ユダヤの民以外の人たちが、暮らしていた地域です。主イエスと弟子たちがそこの地方を行かれると、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んで、イエス・キリストや弟子たちのいるところに来て、叫んだということなのです。「悪霊に苦しめられている」というのは精神的な病か何かだったのでしょうか。自分の娘がそういうことになって、本当に彼女自身も苦しかったということなのです。自分の子供がそのような状態になったときには、親は子どもが苦しんでいる以上に苦しむことなのです。この女性は母親として何とかその状態から救っていただこうとイエス・キリストに救いを叫び求めたのです。しかし、主イエスは、その母親の切なる願いを三度も拒否なさいました。最初は「何もお答えにならなかった」という態度で拒否をされる。次に24節ですが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と拒否をされる。三番目には、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになって、このカナンの女性の母親の求めを拒否をされるのです。しかし、今日のところで、主イエスは、この三回も断られても、しつこく食い下がる女性の信仰を見て、28節にありますけれども、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いとおりになるように。」と主イエスは、このカナンの女性を大層褒められたのです。彼女が「御心のままになさってください。あなたに全てを委ねします。」というような信仰の態度をとることができなかったのは、なぜでしょうか。それは、この娘が悪霊に取り憑かれてひどく苦しめられているという、本当に苦しい状況の中にこの母親はあったわけです。本当にこのイエス・キリストに救っていただかなければ、他に救いはないと、もう絶望するわけにはいかない。彼女は本当に追い詰められていたのです。また、主イエスが子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけないとお答えになるというところですが、子供たちというのは、イスラエルの民のことです。そのパンを取って小犬にやってはいけないと主はおっしゃいます。小犬というのは、異邦人のことを例えたのでしょう。子供たちのパン、つまり神様の恵みを、それはイスラエルの民だけに与えられるべきもので、異邦人には与えられないということになるわけですが、そのようなたとえで、イエス・キリストがそのカナンの女性を拒まれたというのです。その言葉を受けて、これは非常に機転の利いた言い方だと思いますが、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と彼女は主イエスに訴えます。もともと小犬には最初から食べ物は与えられない。食事の用意は人間にしか用意されていないのですが、思いがけずこぼれてしまったそのパン屑、床にこぼれてしまったパン屑は、どうなのでしょうか。あふれ出たそういう恵みを、頂戴することはできないのですかとイエス・キリストに厳しく、イエス・キリストを問い詰めるというようなそんな勢いで彼女は訴えます。その彼女の必死の叫び、祈り求めに対して、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と主イエスはお答えになりました。 わたしたちは、神様に救いを祈るときにわたしのこんなちっぽけな祈りは、神様に聴いてもらえないのではないかと諦めかけるときもありますけれども、ひょっとしたら、わたしたちの祈りが足りないのかもしれません。諦めることなく祈れと、主イエスが今日のところのたとえ話でもわたしたちに示してくださっているのではないでしょうか。ある人が申しておりましたけれども、神様というお方は、わたしたちのそのような必死の祈り叫びを喜んでいてくださるのだと、神様はそういうお方だというのです。神様は、わたしたちの祈り願いを全て叶えていただけるかどうかはわからないけれども、神様に対してわたしたちが祈る、この祈り求める叫びは、神様に必ず届いているのです。 わたしたちには生きていく中で様々な苦しく、つらいことが起こります。「マタイによる福音書」の最後にありますが、復活をなさったイエス・キリストが、弟子たちの前に現れて、世界中に行って伝道しなさい、あなたがたにはいろいろな困難があるだろうけれども、大丈夫だ、復活したわたしは、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるとあります。わたしたちが信仰を持って生きるというのは、何か取り澄ましたような祈りによるのではなくて、本当に神様にすがりつくように、神様にむしゃぶりつくようにして、わたしたちの祈り願い、叫びをもぶつけるようなことであり、そういうわたしたちの必死の祈りということが求められるのです。それがまさに信仰なのです。そのようにするわたしたちのことを、神様はちゃんと顧みてくださいます。そのことをわたしたちはしっかりと心に留めて、諦めることなく、粘り強い祈りをし続けていくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる