2026.8.2  聖霊降臨後第10主日礼拝 説教要約
イザヤ書 55章1~3節
ローマの信徒への手紙 8章35節、37~39節
マタイによる福音書 14章13~21節
                          

「五千人の給食」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 本日のところでは、奇跡の話が出てきます。イエス・キリストが、その御生涯において数々の奇跡の御業をなされていました。今日の話は、「五千人の給食」ということです。男性だけで五千人、女性や子供を含めれば、二万人とかそういう数の人たちがいたことでしょう。そういう大勢の人たちに対して起こされた奇跡のお話です。

 聖書箇所の最初のところでは、大勢の群衆が、主イエスの後をついてきて、その群衆を深く憐れまれて、その中の病人を癒やされるということをなさいました。そうこうしてるうちに、もう夕暮れになってしまったということです。夕暮れになれば、晩ご飯の心配をしなければいけなくなってきます。弟子たちがこの大勢の人たちを前にして、食事の心配をしたのです。これだけ集まっている人がいるのだけれども、どうしましょう。人里離れたところですから、食べるところもない。解散させて、それぞれみんなで自己責任で、自分のことは自分でやってもらうようにしましょうかと主イエスに提案したのですが、驚いたことに主イエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」とお命じになったのです。彼らは驚いて、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」それでどうやってこの一万人とか二万人の人たちを養うのですかと誰でもそう思うことでしょう。たったパン五つと二匹の魚しかないのですから、それでもって、おそらく一万人以上二万人近い人たちに食事を与えるなどということは、できるはずもないのです。しかし、主イエスは慌てて騒がず、「それをここに持って来なさい。」とおっしゃるのです。19節には、「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。」とあります。たった五つのパンと二匹の魚で、一万人や二万人の群衆たちを満腹させるという、これはまさに奇跡としか言いようがないことです。ここで大切なことは主イエスが、ここで弟子たちを用いて、弟子たちを使って、そして、五つのパンと二匹の魚を用いて、奇跡を起こしされたということです。主はご自分だけでなさらないのです。あえて弟子たちを用いてこの奇跡をなさっているのです。ご自分だけでもできたのかもしれません。おそらく、主イエスは大きな力をお持ちでしたから、そういうことはできたはずですけれども、あえてその弟子たちをお用いになりました。しかも、五つのパンと二匹の魚だけでなさったのです。それらだけをお用いになって、なぜその奇跡を起こされたということが、今日の話の中心のテーマなのです。このようなわずかなもので奇跡の御業がなされました。決して優秀とはいえない弟子たちをお用いになって、奇跡の御業を起こされる。この弟子たちは漁師だったと聖書にあります。いろいろな欠け貧しさを持っていた人たちです。彼らはいろいろな罪も犯します。

 わたしたちは以前も聖書から聴きましたけども、「貧しい人々は幸いである」という「山上の説教」の中のみ言葉があります。この「貧しい人々」というのは、経済的に貧しいということだけではない。自分の能力とか、そういういろいろ持っているものが、乏しいという意味での力がないとか、能力がないとか、そういう意味での貧しい者ということです。それは、自分の力に依り頼んで、自分で自分を救う者ではなくて、本当に力のない、弱い者こそが、幸いなのだと、祝福されるのだと主イエスがおっしゃったのです。それはなぜか。わたしたちは貧しい者よりも貧しくない方が、幸いなのではないかと考えてしまうわけですけれども、なぜそのように主イエスはおっしゃったのでしょうか。それは自分の力により頼むのではなくて、神様の力により頼む。神様に救いを祈る、祈り求める者になるのです。そういう者こそ幸いだと、主イエスはおっしゃっているのです。人と比べて自分は能力がない。頭も良くないと思っている。体力もない。歳も取っている。以前ほどは十分に動けない、とわたしたちは考えてしまって尻込みしてしまう。劣等感を持って、何か後ろ向きになってしまいます。しかし主イエスはここで弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とお命じになるのです。「力のない貧しいあなたがたが、食べる物を与えなさい。わたしが助ける」とおっしゃる。わたしたちは神様の力をいただいて、初めて奉仕の業に取りかかることができるのです。自分の力、自分の手の中を見ている限りは、わたしたちは人と比べて、劣等感に落ち込んでしまいます。身動きがとれなくなってしまう。自分が何かできるとか、できないということにこだわって、自分の能力や力、などにこだわっていると、最後には自分に絶望するしかなくなってしまいます。以前は、これだけできたのに今はもう何にもできないという、絶望的な気持ちになってしまう。しかし、「自分のことだけを見るな」と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。主は、人と比べることなく、自分の手の中だけを見るのではなくて、「わたしを見なさい」とおっしゃっているのです。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい、と主イエスはおっしゃっている。わたしたちが持っているものというのは、本当に不十分なものでしょう。しかし、たとえその人が誰にも負けない才能を持っていたり、財産を持っていたとしても、神様の前では各人の持っているものの間に違いはないはずです。どんなにわたしたち自身が貧しいと思えるものでも、神様がお用いくださって、救いの業をなしてくださるのです。そのことを信じて自分自身を神様にお献げしてまいりましょう。

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