2026.7.26 聖霊降臨後第9主日礼拝 説教要約
列王記上 3章5節、7~12節
ローマの信徒への手紙 8章28~32節
マタイによる福音書 13章44~52節
本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日のところで、「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃって、この話を語られた主イエスは、わたしたちに何を伝えようとしておられるのでしょうか。それはまず第一に、天の国は「隠された宝」だということです。それは隠されているので、ここに天の国があるということが誰にでもわかっているわけではありません。天の国とは、「神のご支配」という意味です。それは言い換えれば、38節にありますが、この世界が、そしてわたしたちの人生が、すでに神が支配しておられる「神の畑」ということです。しかしこの世界という畑には、神に敵対する力、悪の力が猛威を振るっていて、しばしば悪の力、毒麦の方が勢いを持ち、良い麦を圧倒してしまうというようなことも起こります。つまり、神のご支配.、天の国は隠されていて、誰の目にもはっきりと見えているわけではないのです。しかしその隠された神のご支配が、あらわになる日が来る。それが世の終わりの裁きの日です。そのときには、神様がこの畑のすべてを刈り取り、良い麦と毒麦とはっきりと分けられる。そのときに、この畑が神様のものであったということがはっきりするのです。天の国、神のご支配は、そのときまでは隠されているのです。天の国は、「隠された宝」だということが、このたとえが語っている第一のことだとしますと、第二のことは、その「隠された宝」を見つけた人がいるということです。隠されていて、誰も気づいていない宝を何かのきっかけで掘り当てた人がいるのです。それは誰あろう、わたしたちのことです。神様を信じているわたしたちです。信仰者とは、天の国という「隠された宝」を見いだした人です。その宝は隠されていますから、多くの人々にはそれが見えていません。人々の目に見えていないものを、見つめて生きるのが信仰です。誰もが見ているものを見ているのでは、信仰にはなりません。信仰は「隠された宝」を見いだしたところに生まれるのです。信仰者とは、「隠された宝」を見いだした者です。しかしそれは、長年その宝を探し回って、努力の甲斐あってついに発見したというのではありません。この人だって、別に宝を探して畑を耕していたのではないでしょう。畑仕事をしていたら、たまたま偶然、宝を見つけてしまったのです。わたしたちが天の国という宝を見つけるのも、それと同じことです。わたしたちは人生を生きていく中で、たまたま何かのきっかけで教会を知り、礼拝に通うようになり、そして神様を信じる者になるのです。わたしたちが熱心に信仰を求めていたとか、どう生きるかを真剣に悩み、模索していたわけではない場合の方が多いでしょう。わたしたちは些細な、何かのきっかけで、この「隠された宝」を見出すのです。世間の人々はそれを偶然と呼びますが、わたしたちは、そこに神様の招きと導きを感じるのです。そのようにわたしたち信仰者は、神様の招きと導きとによって、天の国、神様のご支配という「隠された宝」を見いだした者たちなのです。しかし見いだしたからといって、直ちにそれがわたしたちのものになるわけではありません。そこにこのたとえの第三の、そして最も大事なポイントがあります。畑に「隠された宝」を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うのです。そうしなければ、宝を見つけても、それは自分のものにはなりません。せっかく見つけた宝を、本当に自分のものにするためには、全財産を売り払ってそれを買うことが必要なのです。この持ち物をすっかり売り払って、宝を手に入れるということが、45~46節の真珠商人のたとえとも共通していて、それがこれらのたとえの中心であることがわかります。 畑を買うのは、それ以上の財産である宝を手に入れるためです。高価な真珠も、その人の財産となるのです。これらのたとえが教えているのは、天の国という「隠された宝」を本当に真剣に求めていくこと、それを得るために全力を尽くすことです。そのためには、犠牲にしなければならないものもあります。我慢しなければならないこともあります。天の国は、ついでに片手間で手に入るようなものではないのです。畑に「隠された宝」を見つけた人が、その宝のことばかりを考え、その畑を何とかして手に入れようと、必死になるように、天の国を見いだしたわたしたちも、それを得るために熱心に真剣に取り組んでいくのです。真珠商人は、お店に飾られている真珠をただ眺めているだけではなく、それを買うために手放すべきものを手放したのです。それが洗礼を受けて、信仰者になるということなのです。それは言い換えれば、主イエスの弟子になるということです。この宝を与えてくださるのは、主イエスです。主イエスに従っていくことによって、この宝を得ることができるのです。 47節以下には、魚の網のたとえが語られています。いろいろな魚が、それこそ一網打尽にされる。そして岸に引き上げられてから、良いものと悪いもの、つまり売り物になる魚とそうでない魚が分けられるのです。それは、49節に語られているように、この世の終わりの神の裁きのことを語っています。しかし、それは、弟子たちやわたしたちを恐れさせて、神の裁きにビクビクしながら生きる者とするためではありません。この世界は、わたしたちはすでに神様の大きな網の中に捉えられているのです。この網の中にはいろいろな魚がいるので、これは一体、誰の網なのだろうかと思うこともあります。しかしこの網は、悪魔の網ではありません。神様の網、神のご支配の中にわたしたちはいるのです。その神のご支配は、独り子イエス・キリストの十字架の死による恵みのご支配です。それゆえに、この網に捉えられているということは、神様の恵みの御手のうちに捉えられているということです。わたしたちは、そのことを喜んで神に信頼して生きるのです。世の終わりの裁きを見つめつつ生きるということは、神の隠されたご支配を信じて、今のこの世を忍耐と希望と思って生きることなのです。 閉じる