2026.7.19 聖霊降臨後第8主日礼拝 説教要約
イザヤ書 44章6~8節
ローマの信徒への手紙 8章26~27節
マタイによる福音書 13章24~30節
本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
ここで「毒麦」とあります。ここに出てくるこの「毒麦」というのは、雑草ということです。麦の種を蒔いて育てると麦ではない麦に似たような植物が混ざってしまうのです。 今日のところで、僕たちが主人のところに来て、収穫が行われる前に、この毒麦を抜いてしまいましょうか、どうしましょうかという指示を主人に求めたところ、主人は「『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方を集めて倉に入れなさい。」と、刈り取る者に言いつけよう。』」とおっしゃったのです。これはたとえ話ですから、何をそれぞれ例えているのか、ということが問題になるのですけれども、これまで教会が伝統的に解釈してきたところによると、この畑というのは、この世、この世の有様、特に神の畑、すなわちわたしたちのこの教会のこと、この世にある教会のことを表していると言われています。37節以下に、「イエスお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」とあります。イエス・キリストが種を蒔いてくださる。その種が育って麦になる。毒麦ではない良い麦ということなのです。しかしその中で、悪魔サタンが毒麦の種をこの教会の中に蒔くということがある。それで毒麦も育ってしまう。しかし、世の終わりには、その毒麦が集められて火で焼かれてしまう。この世の終わりには、神様の裁きがくだされて、悪い麦が焼かれる。そういう有様をたとえているということなのです。良い麦、毒麦というのは、どういうことなのか。そもそも、わたしたちは一体良い麦なのか、毒麦なのか。そういうことも考えてしまうのです。この世の終わり、そのときには、毒麦は裁きにあって焼かれてしまうとありますけれども、果たしてわたしたちは、良い麦なのだろうか、ということです。わたしたちは、立派な信仰者として、生きているのかということをわたしたちは心配になってしまうのです。自分は一体どちらなのだろうか、あの人はどうなのだろうか、ということも気になる。しかし、わたしたちは決して良い麦ではない。良い麦であろうとしても、時々毒麦になってしまうこともあるのではないか。ですから、わたしたちは終わりの日に神様の裁きを受けて、焼かれてしまうのであろうかと心配になってしまうのです。いや、わたしたちはそのようにされても文句が言えない存在なのではないでしょうか。 自分が良い麦なのか、毒麦なのかもわからない。教会という集まりの中で、誰が一体、あの人が毒麦なのだなどと言えるのでしょうか。そのような裁きはわたしたちにはできません。それは神様がなさることです。裁きは神様におまかせしなければなりません。しかしだからと言って、良い麦も悪い麦も同じだということを、主イエスはおっしゃっているのではないでしょう。毒麦は、終わりの日には神様の裁きを受けるということは前提としてあります。そのことをわたしたちはしっかりと受け止めなければなりません。しかし、わたしたちが自分は果たして毒麦なのかもしれない、良い麦なのだろうかといって、終わりの日まで、わたしたちがドキドキしながら、不安な気持ちで生きなければならないのでしょうか。29節にありますが、「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」と主イエスはおっしゃいます。間違って良い麦まで抜いてしまうかもしれない。毒麦を抜くために、少しの犠牲はやむを得ないというような考え方はここにはないのです。神様は毒麦であろうと良い麦であろうと、一本一本を大切に扱ってくださるということがここで示されています。「毒麦もそのままにしておきなさい」とありますが、神様の慈しみと忍耐がここで示されています。それでは、良い麦や毒麦というのが、終わりの日まで毒麦は毒麦であり、良い麦は良い麦であり続けるということなのでしょうか。前回のところで申し上げましたけれども、神様の愛と憐れみによって、石地のようなところが、良い土地に変えられる。み言葉を容易に聴くことがない石のようなわたしたちの心を神様は砕いてくださり、一生懸命に水をやり、耕してくださって、そのような土地を良い土地にしてくださるということを申し上げました。今日のところでも同じように、神様は毒麦であるわたしたちを良い麦に変えてくださる。その可能性があるということを、わたしたちは心に留めなければなりません。神様は、愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、罪深いわたしたちの罪を赦すために、わたしたちの身代わりに十字架という死刑の刑罰を、イエス・キリストに下されました。それがわたしたちにとっての救いということです。その慈愛に満ちた恵み深い主なる神様によって、わたしたちは良い麦に変えていただける。毒麦であるわたしたちを大いなる忍耐と慈しみをもってわたしたちを育んでくださるのです。刈り入れのときまで忍耐して待っていてくださる。本来であれば、毒麦はすぐに畑から取り除かれねばなりません。そうしないいと作物がちゃんと実ることはできないのです。しかし、神様は悪い麦であるわたしたちのことも忍耐して待っていてくださるのです。 わたしたちは、神様の忍耐と慈しみによって、ともに育てられている麦として、お互いを赦し合い、受け入れ合っていくことが求められています。そして、このたとえ話で出てきた主人が言ったように、悪い麦を抜かずに刈り入れの時まで、抜かずに取っておくという忍耐が示されます。わたしたちもその忍耐にならって、隣人とともに生きることができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる