2026.7.12  聖霊降臨後第7主日礼拝 説教要約
イザヤ書 55章10~11節
ローマの信徒への手紙 8章18~23節
マタイによる福音書 13章1~9節、18~23節
                          

「豊かな実を結ぶもの」

 本日の主イエスのお話は、種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちた、という話です。このたとえに語られているいくつかのケースは、わたしたちにもそれぞれ思い当るふしがあることです。み言葉の種が蒔かれても、それが全く芽を出さずに、鳥に食べられてしまうようにいつのまにか消えてなくなってしまう、そのように、み言葉がわたしたちの心に全く根付かず、失われてしまうということを、わたしたちは自分自身において、また他の人々において経験します。また、み言葉が一旦は受け入れられ、芽を出す、それは信仰の芽生えと言ってもよいでしょう。しかし、それがわたしたちの心にしっかりと根付いていかない、心のごく表面のみに止まってしまうということがあります。わたしたちの心を少し掘り下げてみると、そこには、み言葉を寄せ付けない堅い石のようなものがあって、み言葉の根はそこを突き抜けることができない。そういう状態だと、信仰はしばらくは続くけれども、いろいろと困難が生じたり、大なり小なり迫害を受けるようなことがあると、すぐにつまずいてしまうのです。あるいは、わたしたちの信仰の生活は常に茨に囲まれていると言うことができます。信仰が育っていこうとする時に、それを覆いふさいでしまうような様々なものがこの世には満ちているのです。22節に「世の思い煩いや富の誘惑」とあります。この世を生きていく以上、わたしたちはこの世の事柄と関わりつつ歩んでいます。自分の命のこと、体のこと、生活のことで、様々な思い煩いが、不安がわたしたちにはあります。それを何とかしなければならない、と日々あくせくしているのです。そういう思い煩いと共に、この世の生活には様々な誘惑があります。わたしたちの思いを神からそらせ、神とは別のものを見つめ、別のものに頼らせようとするものがあるのです。それは富だけではなく、人それぞれに様々な誘惑があると言えるでしょう。そういうものに心を奪われてしまうと、み言葉の種が育っていかない、実を結ばない、信仰が育たずに、むしろ枯れていってしまうのです。み言葉の種が蒔かれ、芽を出し、育っていき、実を結ぶようになるには、これらの様々な妨げが乗り越えられなければなりません。その全てがクリアーされているのが「良い土地」であって、み言葉の種はそこでこそ実を結ぶのです。

 それでは、主イエスはわたしたちに、「がんばって良い土地になりなさい」と言っておられるのでしょうか。そうではありません。「あなたがたは良い土地である」それがこのたとえ話において主イエスがわたしたちに語りかけておられるメッセージなのです。

 しかし、そうであるならば、主イエスはなぜ、最初の三つのケース、道端とか、石だらけの地とか、茨の間というような土地のことをお語りになったのでしょうか。最初の三つのケース、道端や、石だらけの地、そして茨の間、それはやはりどれも、わたしたちの姿です。これを読んで、身につまされる、これは自分の姿だと思うのは正しいのです。その通りなのです。しかしそこでわたしたちがしっかりと聴き取っていかなければならないのは、そのような、道端であったり、石だらけの地であったり、茨に塞がれているようなわたしたちの心に、神が、常にみ言葉の種を蒔き続けて下さっているということです。

 神は、「わたしは良い土地にしか種は蒔かない。おまえが良い土地になったら種を蒔いてやる」とはおっしゃらないのです。み言葉の種は、どんな土地に対しても蒔かれています。たとえその土地が、全くみ言葉を受け付けず、取り付くシマもないような、蒔かれた種はそのまま鳥についばまれてしまうような、そんな道端であっても、わたしたちがそのようなかたくなな心でいる時にも、神はみ言葉の種をわたしたちの心に蒔いて下さっているのです。またわたしたちが、表面的にはみ言葉を受け入れて信仰の芽を出すけれども、心の中には堅い石がごろごろしていて、み言葉が深く根を下ろすことができない、そのために少しでも嫌なこと、つらいことがあると、信仰なんかやめたと言って捨ててしまう、そんな弱い者、つまずきやすい者であっても、そのわたしたちに、神はみ言葉の種を蒔いて下さっているのです。またわたしたちが、この世の様々な思い煩いに捕えられ、あるいはいろいろな誘惑に目を奪われて、神を忘れ、み言葉から目を背けてしまい、信仰の茎がやせ細り、いつのまにか見えなくなってしまう、なくなってしまう、そのような者であっても、そのわたしたちに、神はみ言葉の種を蒔いて下さっているのです。それは神が、何とかしてわたしたちを、み言葉の種が育ち実を結ぶ良い土地にしようと情熱を傾けていて下さるということです。

 神ご自身が、汗を流して、いっしょうけんめいに、み言葉の種を蒔き続けていて下さるのです。その神の熱心な、情熱あふれる、そして倦むことのない種まきの結果、わたしたちは、自分に蒔かれているみ言葉に気づくことができるようになる。神が語りかけて下さっていることに気づき、それに耳を傾けることができるようになる。そして信仰の小さな芽を出すことができるのです。その芽はしかし、ちゃんと根づかずに、育たずに枯れてしまうことも多いのです。茨に塞がれて伸びないことも多いのです。それでも神は繰り返し、あきらめることなくみ言葉の種を蒔き続けて下さっているのです。それによって、わたしたちの心は、次第によく耕されていくのです。石が取り除かれ、茨が抜き取られていくのです。そして気がついた時に、わたしたちの心に、み言葉の結ぶ豊かな実りが与えられます。それは、神がわたしたちの心に種を蒔き、それを耕し、石を取り除き、雑草を抜いて下さっている、その神のわたしたちのための労苦にわたしたちが気づく、ということです。もともと全く良い土地ではない、道端に過ぎなかったようなわたしを、神が愛して下さり、汗水流して世話をして下さり、み言葉を悟ることができる良い土地にして下さった、その驚くべき恵みに気づき、感謝することこそ、み言葉の種の実りなのです。

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