2026.6.28 聖霊降臨後第5主日礼拝 説教要約
列王記下 4章8~11節、14~16a節
ローマの信徒への手紙 6章3~4節、8~11節
マタイによる福音書 10章34~42節
本日は、「マタイよる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。
本日ご一緒に聴いてまいりますイエス・キリストのお言葉にわたしたちは驚かされます。柔和で優しい救い主という主イエスのイメージを、打ち砕くようなことがそこに語られているからです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と主イエスはおっしゃいます。さらにたたみ掛けるように、「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる。」とも語られています。主イエスは剣、つまり敵対関係をもたらす。そしてそれは親子、家族の間にも及ぶ。主イエスが来られたことによって、つまり主イエスを信じる信仰によって、家族の間に不和が起こり、家庭が崩壊すると言われているのです。なぜそうなるのでしょうか。それは37節にあるように、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」からです。主イエスは、父や母、息子や娘という家族への愛よりも、主イエスへの愛を優先させよと言っておられるのです。このみ言葉は、つまづきに満ちたものです。主イエスを信じている信仰者もこのみ言葉に対しては、それは困る、主イエスは平和をもたらしてくださるはずではないかと思い、受け止めます。また、「わたしたちよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われると、自分は到底、主イエスにふさわしいものにはなり得ないと感じるのです。しかし、主イエスはここで、ことさらにわたしたちの家庭に不和をもたらし、敵対関係を生じさせようとしておられるわけではありません。そのことは、39節からわかります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と語られています。つまり主イエスがここで語っておられるのは、命を本当に得るためにはどうしたらよいかということなのです。自分の命を得ることばかりに目が行ってしまっているわたしたちに対して、ショック療法的な意味で主イエスのほうへ目を向けるように、強い言葉によって促しておられるのです。それほどまでにわたしたちの心が頑なであることを主はよくご存じなのです。家族のことなんかどうでもよいとおっしゃっているのではないのです。 それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。自分の命を得ようとするのではなくて、他人の命を求め、人のために尽くせということでしょうか。主イエスが語っておられるのは、そういうことではありません。イエス・キリストのもとにこそ、真の命がある。主イエスに従うことにこそ、自分が本当に生きる道があるのです。ですから問題は、自分のものであり、自分の思い通りになる命を求めるのか、それとも、主イエスのもとにある命を求めるのかということなのです。 それでは、イエス・キリストのもとにはどんな命があるのでしょうか。わたしたちが自分のものとして得る命よりも、主イエスのもとにある命こそが、わたしたちを本当に生かすということなのでしょうか。イエス・キリストは神の独り子であられ、ご自身も神であるお方です。だから、主イエスは神としての命を持っておられます。その主イエスが人間となってこの世を生きてくださり、わたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んでくださったのです。主イエス・キリストは、この十字架の死によって、わたしたちの罪と死とをご自分の上に引き受けてくださいました。そして、父なる神はその主イエスを復活させて、永遠の命を生きる者としてくださいました。この主イエスの十字架の死と復活によって、神の命がわたしたちにあらわされたのです。それがわたしたちにとっての真の命なのです。 主イエス・キリストのもとにこそ真の命がある。それがわたしたちの信仰です。しかしこの信仰に生きるときに、周囲の人々との間に様々な摩擦、軋轢が生じます。それは家族の間においてもです。そのことを主イエスはここで示し、わたしたちに覚悟を求めておられます。信仰は周囲の人々といたずらに争いや対立を引き起こすものではないけれども、しかし場合によっては、家族の間でも理解を得られず、対立関係が生じてしまうことがあるのです。そのときわたしたちは信仰による苦しみを体験します。信仰を持って生きることには喜びや平安のみではなく、このような苦しみが伴うこともあるのです。38節に、「自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言われているのは、そのためです。わたしたちは自分の十字架を担って、主イエスに従うのです。しかし、それは特別なことではありません。主イエスにお従いし、主イエスのもとにこそ、真の命があると信じ、それを第一に求めていく中で、わたしたちはいろいろな妨げに遭うのです。最も近く、親しい家族にも理解されずに、苦しむことがあるのです。それがわたしたちが担うべき十字架です。その十字架を投げ出してしまわないで、担い続けること。主イエスのもとにある真の命を求め続けることが大切です。そこでしっかりと覚えておくべきことは、この十字架は主イエス・キリストが先頭に立って、担ってくださったものだということです。わたしたちだけが十字架を背負わされているのではありません。わたしたちが自分に与えられている苦しみを背負って歩んでいくときに、十字架にかかって死んでくださった主イエスがともにいてくださり、「あなたはわたしにふさわしい」と言ってくださるのです。主イエスに従う弟子たち、信仰者は、このように自分の命を得ようとするのではなく、主イエスによって与えられる真の命を求めて、苦しみをも耐え忍びつつ歩みます。そうすることによってわたしたちは真の命を得るものとなるのです。 閉じる