2026.6.21  聖霊降臨後第4主日礼拝 説教要約
エレミヤ書 20章10~13節
ローマの信徒への手紙 5章12~15節
マタイによる福音書 10章26~33節
                          

「恐れるな」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

「恐れるな」── これが本日の説教の題です。本日の聖書の箇所で、三度も「恐れるな」という言葉が主イエスによって語られます。「マタイによる福音書」の10章は、主イエスが十二人の弟子たちを選び、「天の国は近づいた」という福音をお語りになり、主イエスご自身がなさっていた、癒しの御業をさせるために、弟子たちを派遣なさったときの教えです。遣わされる弟子たちに、主イエスは「恐れるな」と語りかけ、彼らを勇気づけておられます。わたしたちもまた、主イエスによって選ばれて、この世へと遣わされているのです。本日の聖書箇所の32節、33節に、このことの意味が語られています。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」ここには、人々の前で自分を主イエスの仲間であると言い表すか、それとも、主イエスなど知らないというのか、ということが問われています。このことはまさに信仰の告白であり、このことに基づいて伝道がなされます。そのように信仰を告白し、洗礼を受けて、キリスト者、クリスチャンとなったわたしたちは、教会の外でも人々の前で、つまりこの世におけるいろいろな交わり、関係の中で、自分はイエス・キリストを信じる者です、クリスチャンです、ということを言い表していくのです。それがわたしたちの伝道です。わたしたちは伝道のために、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。それは荷が重い、と感じるかもしれません。しかし、伝道するというのは、人々を説得して信仰に導くことではありません。そんなことは、人間にはできないのであって、わたしたちにできることは、自分がキリスト者、クリスチャンであることを人々の前で言い表すことなのです。

 伝道というのは、わたしたちの自分たちの立派さや、力によってできることではありません。いろいろな罪や弱さや欠けを抱えているわたしたちが、イエス・キリストによって赦され、神に支えられながら生きているということを人々の前で示していくところに、神ご自身が聖霊の力によって働いてくださって、伝道がなされていくのです。それゆえに、伝道においてまず必要なのは、人々の前で自分が主イエスを信じて生きていることを言い表すことです。そのことを、主イエスはわたしたちに求めておられるのです。しかし、そのように人々の前で主イエスを告白しようとするとき、わたしたちは恐れを覚えます。今の日本の社会においては、主イエス・キリストを信じていると告白したからといって、物理的な迫害を受けることはありません。それでも、イエス・キリストを告白して生きることに対する妨げは、この社会においても、別の形でやはりあります。例えば、先祖代々の家の仏壇や墓を守れ、という周囲の圧力は、わたしたちが個人として神を信じて生きようとすることを妨げます。また、職場や職種によっては、クリスチャンであることが不利益となるようなところもあるでしょう。またわたしたちの社会には、日曜日に礼拝を守るということへの理解が、基本的にはありませんから、礼拝を守って生きようとするとおのずと世間の人々とは違う、変わった生活をすることになります。そういう現実を前にしてわたしたちは恐ろしくなります。主イエスを信じる信仰を人々の前で言い表すことには、このような恐れがつきまとうのです。そのわたしたちに対して主イエスは、「恐れるな」と言っておられるのです。

 次の28節には、もう一つ新たな「恐れるな」ということがあって、その根拠が示されているのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども、それがわたしたちがこの世で出会い、恐れている人間たちです。その人間たちによって、体が殺されてしまうかもしれない。そういう恐れをわたしたちは抱いています。主イエスはそれに対して、わたしが守っているからそんなことは起こらない、大丈夫だとはおっしゃらないのです。確かに体は彼らによって殺されてしまうかもしれない。しかし、彼らとて、魂まで殺すことはできないのだとおっしゃるのです。ここに体と魂とありますが、主イエスは、人間にとって肉体は滅びても魂だけは生き続けると言っておられるのではありません。そうではなくて、人間たちはあなたの体を殺すことができるかもしれないが、彼らの力はあなたの魂にまでは及ばない。それに対して神の力は体のみではなく、魂にまで及ぶのだということです。その場合の魂とは、わたしたちの一番中心の本質の部分を指していると言えます。人間の力はそこまでは及ばない。しかし、神の力は、わたしたちの一番中心の本質の部分にまで及ぶのです。それなら本当に恐れるべきなのはどちらか。それがここでの問いです。本当に恐れるべきなのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方のことです。ところがわたしたちは、その本当に恐れなければならないお方を恐れずに、人間ばかりを恐れているのです。つまり、恐れる相手を間違えているのではないか、本当に恐れるべき方を恐れなさいというのが、28節の教えなのです。そうすると26節は、今はそのご支配が覆われているが、本当にわたしたちを、この世界を支配しておられるのは神なのだから、その神をこそ見つめていきなさい、と教えているということができます。いつかは神のご支配が実現することに希望を置いて、と言われているだけではなくて、神のご支配はすでに確立している。今は覆われている、神の子の支配を信じて歩みなさい、と主イエスは言っておられるのです。わたしたちは神のみ言葉によって、すでに実現している神の恵みのご支配を示され、そのご支配がいつかあらわになり、完成することを信じて待ち望みつつ、生きることができるのです。

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