2026.6.14 聖霊降臨後第3主日礼拝《春の伝道集会》 説教要約
ルカによる福音書 15章11~32節
本日の聖書のみ言葉は、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている箇所です。しかし、この箇所は、放蕩息子の話というよりも、むしろその父親の愛情の深さということが、中心になっているのではないかと思われます。
ある人に、息子が二人おりました。彼らは父から財産を分けてもらいました。弟は、その財産を持って父の知らない遠いところへ行って放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしてしまいました。そのときにちょうど飢饉がその地方に起こったのです。彼は食べるものにも困ってしまいました。15節に「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。」とあります。さらに「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」とあります。彼は徹底的にどん底の生活に落とされました。そこで彼はふと我に返るのです。実家の父のところでは雇人がいて、あり余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓死しそうだ、実家に帰ろうと考えました。そして父に何と言おうかと彼は考えたのです。18節から19節にありますが、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と実家に帰って父に会ったら言おうと彼は思ったのです。実家に帰る道すがら、おそらく彼は、何回も何回もそのセリフを心の中で繰り返したことでしょう。そして実家に近づいてきたところ、「まだ遠く離れていたのに、父親が息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。その父親は、驚いたことに、その息子を叱りつけるどころか、「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。この息子は大変驚いたことでしょう。実家から遠く離れていたのに、父は息子の姿を見つけたのですけれども、しかしどうしてこの父親はそれがわかったのでしょうか。彼が来ることがどうしてわかったのでしょうか。家の外で遠く離れていたのに、父親は息子の姿を見つけました。ここには書いてありませんけれども、おそらくこの父親は、息子の帰りを、毎日外で待っていたのではないでしょうか。それほどまでに、この父親は息子のことを気にかけていたのです。21節に「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』とあります。普通であれば、この父親は、会った途端に息子を厳しく叱りつけたことでしょう。しかしこの父親は、この息子を叱りつつけるどころか、次のようにしたのです。22節以下にあるように、盛大な祝宴を開くことまでして息子の帰還を大いに喜んだのです。このように、この父親は、親の財産を使い尽くしてしまったこの息子にそこまでしてやったのです。しかし、わたしたちはこの父親の姿を見るときに、何か違和感といいますか、何か違うのではないかと感じるのではないでしょうか。普通ならば、このようなことをしでかした息子に対して、厳しく叱りつけるのは、当然であるにもかかわらず、溺愛と言っていいほどの愛情を示して息子を迎えたのです。子供を愛さない親は、おそらくいないのですけれども、ここまでする父親の愛情というのは、常軌を逸していると言っていいほどの愛情です。 今から約二千年前に、イエスというお方が十字架にかけられて処刑されるということがありました。なぜそのお方が十字架にかけられてしまったのでしょうか。それは、大きな罪を神様に対して犯し続けている人間の罪が赦されるために、わたしたちに代わって身代わりになられて、その刑罰を受けられたのです。 わたしたちは過去にいろいろな罪を犯しました。過ちを犯しました。そして今も、そしてこれからも罪を犯してしまいます。罪を犯さないようにしようと思っても、犯してしまうのです。しかし、驚くべきことに、その全ての罪がイエス・キリストの十字架によって、イエス・キリストの十字架における死によって赦されるということになったのです。 わたしたちは自分の罪から自由ではありません。なぜあのときに、あんなことをしでかしてしまったのかとわたしたちは嘆きます。わたしたちが知らない間に犯してしまう罪や過ちがあります。それらのことに気がつくとき、わたしはどうしようもない人間だと言って、良心の刃で自分自身を切り刻んでしまいます。自己嫌悪に陥ってしまうということがあります。そのことで、わたしたちは自分の罪の重さに耐えかねて一歩も動くことができない、ということも起こってきたりします。自分という人間が本当に嫌でたまらないということも起こってくる。しかし、神様はそのようなどうしようもない罪深いわたしたちを、そのままで愛し、受け入れてくださっているのです。そのことが、イエス・キリストの十字架の苦しみと死ということに示されているのです。そのような大きな犠牲が払われて、わたしたちは神様に赦されているのです。罪にまみれた、どうしようもないわたしたちですけれども、神様はわたしたちをそのままで受け入れてくださり、愛してくださっています。それは、わたしたちが、これこれの立派なことをしたから、神様に愛されるのではありません。そういうことで神様から赦しが与えられているのではない。わたしたちの側に何の立派なところがなくても、無条件で神様はわたしたちを愛し、受け入れてくださるのです。それがここで言われている、常軌を逸した神様の深い愛ということなのです。そのようにしてわたしたちが赦され、わたしたちが受け入れていただいている、愛されているということに気づくならば、わたしたちが自らの罪の重さのために、自分の殻に閉じこもって身動きがとれなくなっているところから立ち上がって、勇気を持って、新しい一歩を踏み出すことができるのです。それこそが神の救いなのです。その救いの道をどこまでも歩んでいけるように神の支えを祈り求めてまいりましょう。 閉じる