2026.6.7  聖霊降臨後第2主日礼拝 説教要約
ホセア書 6章3~6節
ローマの信徒への手紙 4章18~25節
マタイによる福音書 9章9~13節
                          

「罪人を招くために」

  本日は、「マタイよる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の与えられたみ言葉において、マタイという人が出てきます。このマタイという人は、徴税人でした。この徴税人と言われる人たちは、支配者であるローマ帝国の人たちに代わって税金を集める仕事をしていました。徴税人たちはその税金について本来集める以上の額を集めていた、利ざやを稼いでいたのです。

 マタイが、収税所に座っているのを主イエスがご覧になった、と今日の聖書箇所の最初のところにあります。9節に「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼ら立ち上がってイエスに従った。」とあります。なぜこのマタイは、「わたしに従いなさい」というイエス・キリストの招きに、即座に立ち上がって従ったのでしょうか。

 本日の聖書箇所の前のところで、中風の人がいて、自分が病のために体が動かせず、じっとうずくまっているしかなかったこの人に、「あなたの罪は赦される」と言葉をかけてくださったことよって、起き上がることができたとあります。「罪の赦し」がこの中風の人に与えられることによって、イエス・キリストがそれを宣言してくださることによって、彼は立ち上がることができました。そして、このマタイも立ち上がることができたとあります。その彼がイエス・キリストの招きによって、罪の赦しによって、そこから立ち上がることができ、主イエスにお従いすることができたのです。罪の真っ只中にいたマタイが、その中から救い出されたということなのです。彼はまさにそのときから新しい人生を歩み出すことができました。それは彼自身の力によってではなく、イエス・キリストの招きによってだったのです。

 さて、この10節から場面が変わります。イエス・キリストが、大勢の徴税人や罪人と食事をなさっていたというのです。ここで罪人とありますけれども、具体的には娼婦や盗人、犯罪者の人たちでした。当時この人たちと接触することは、宗教的に汚れると考えられておりましたから、その人たちと共に食事をするなどということは、宗教の指導者であったファリサイ派の人たちにとっては全く考えられないことでした。そのため、このファリサイ派の人たちは、主イエスが罪人たちと食事をしているのを見て、「弟子たちに、『なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」とあります。それは彼らにとっては、当然の疑問であったのです。しかし、それを聞いていた主イエスは、12節以降にありますが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」とおっしゃいました。そしてさらに「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とおっしゃっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」病人というのは、医者に病気を治してもらって、そこから救われることを望んでいます。罪人と言われる人たちがどうしたら救われるのかということですが、律法を守ることによって救われる、ということではなくて、律法を守れない人たちの救いはどこにあるのか、ということが問題になります。彼らは律法を守れないからこそ罪人とされているのです。しかし彼らは、律法を守ろうとしても守れない、そういう苦しみを抱えていたのです。そのような人たちの救いのためにも、イエス・キリストがこの世に来られたのです。病人と例えられたこの罪人たちの救いのために、主イエスは来られました。その救いは、ファリサイ派においても同様です。もちろん、わたしたちにも同様です。罪人であるわたしたちにとって、救いは一体どこから来るのかということが本日の箇所で示されているのです。

 13節に「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」とあります。この言葉は、ホセア書6章の言葉が引用されています。わたしたちが何よりも大切にしなければならないのは憐れみなのだと主はおっしゃっているのです。それでは神の憐れみとは何でしょうか。イエス・キリストは、ファリサイ派の人たちに非難されながらも、徴税人や罪人と呼ばれる人たちと親しい交わりを持たれました。主イエスは親しい交わりを持たれるだけではなく、彼らの救いのために、ご自身を献げられたのです。イエス・キリストは彼らの救いのために、彼らと親しく交わるだけではなく、彼らの罪の汚れも担われ、罪という彼らの病いをも担われて、十字架で命を献げてくださったのです。それは罪人と呼ばれる人たち、わたしたちも含めて、わたしたちがそのような資格は一切ないにもかかわらず、何の見返りを求めることなく、主イエスが十字架でわたしたちのために、命を献げてくださった、そのことこそが、神の憐れみの頂点です。神の憐れみの極みが、主イエスの十字架に示されている。わたしたちが救われるのは、その主の憐れみによりすがり、神の憐れみ、神の愛にお応えして生きること以外にはありません。なぜなら、わたしたちは自分で自分を救うことができない者たちだからです。それでは、神様の憐れみにおすがりし、神の愛にお応えするとはどういうことなのでしょうか。それはわたしたちが自分たちの罪に悔い砕かれて、悔い改めて、主のみ言葉にしっかりと聴き、主にお従いするということです。わたしたちは自分の力では、自分を救うことができない者たちであるということを、しっかりと心に留めて、主の十字架の前にひれ伏して、神の憐れみによりすがり、主にお従いするということです。それが主の招きです。本日の聖書箇所の終わりのところに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。主が招いてくださる招きに、わたしたちがしっかりとお応えして、救いの道を歩んでいくことができるようにひたすらに祈り求めてまいりましょう。

  閉じる