2026.3.1  受難節第2主日礼拝 説教要約
創世記 12章1~4a節
ローマの信徒への手紙 4章1~5節、13~17節
マタイによる福音書 17章1~13節
                          

「山上の変貌」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いていく「マタイによる福音書」17章1節以下には、イエス・キリストが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、高い山に登られたことが語られています。その山の上で何があったのでしょうか。2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。主イエスのお姿が、栄光に輝く姿に変わった、つまり、主イエスの神の子としての栄光が、目に見える仕方で示されたのです。このことは逆に、普段の主イエスは栄光に輝く姿をしてはおられなかったことを示しています。普段の目に見えるお姿からは、主イエスが神の子であることは全くわからなかったのです。しかし、このときだけは、そのお姿が、栄光に輝くお姿に変わりました。ペトロとヤコブとヨハネはこのとき、主イエスの神の子としての栄光を特別に見させていただいたのです。主イエスはそのために、彼ら三人を連れて、高い山に登られたのです。彼らが見たのは、栄光に輝く主イエスの姿だけではありませんでした。3節「見るとモーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。」とあります。彼らはモーセとエリアの姿をも見たのです。このモーセとエリアは旧約聖書で、神の救いの歴史全体を代表している二人だと言えます。その二人が現れて、神の子としての栄光に輝く主イエスと語り合っていた。それは神の子であられる主イエスこそ、主なる神のこれまでの救いの歴史を受け継ぐ者、約束されていたメシア、救い主であり、神が全ての人々に与えようとしておられる救い、祝福の回復が、主イエスによっていよいよ実現するということを示しているのです。

   三人の弟子たちは、まさに光り輝く神の救いの出来事のただ中にほんの一時置かれました。5節に「光り輝く雲が彼らを覆った。」と語られているのは、そういうことを示しています。そして、この光り輝く雲の中で彼らは、主なる神のみ声を聴いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」主なる神御自身が、イエスこそわたしの愛する子だと宣言してくださり、神の御心に適う救いの御業が、このイエスによって実現するとお語りになったのです。三人の弟子たちは、主イエスの神の子としての栄光のお姿を見ただけではなく、旧約聖書によって示されてきた主なる神の救いの御心が、主イエスによっていよいよ実現しようとしているということが、神のみ言葉によってはっきりと示されたのです。

 主イエス・キリストは多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺されることによって、救いを実現してくださいました。その主イエスの弟子たちも、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくのです。それは力と栄光の歩みではなくて、むしろ苦しみの歩みです。その苦しみの歩みを支えるために、主イエスの栄光の姿がここに示されたのだと言えるでしょう。

 16章27節で主イエスは、人の子、つまり主イエスは、父の栄光に輝いて、天使たちとともに来るとおっしゃっています。主イエスは世の終わりに父の栄光に輝いて天使たちとともに、もう一度来られるのです。そのことによって、神による救いが完成するのです。山の上で示された主イエスの栄光は、そのことの先取りです。三人の弟子たちは、父の栄光に輝いて天使たちとともに来る主イエスの姿を、前もってほんの一時だけ示されたのです。それによって、自分の十字架を背負って、主イエスに従っていく弟子としての、信仰者としての歩みのための励ましと支えを与えられたのです。

 主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選んで山の上でのことを示してくださったのです。わたしたちも彼らと同じように選ばれて、このことを示されつつ歩んでいます。それはわたしたちが、この主の日、日曜日の礼拝に集う者とされているということです。わたしたちは主の日の礼拝において、栄光に輝く主イエスのお姿を見つめます。主なる神は礼拝において、聖霊のお働きによって、わたしたちの心に主イエスこそ神の独り子、救い主であられ、神としての栄光に輝いておられるお方であるということを示してくださっているのです。ですから、わたしたちにとっての「山の上」ということは、すなわち主の日の礼拝のことです。そしてわたしたちは、同じ主の日の礼拝において、その神の子である主イエスが栄光を放棄して、わたしたちのために人間となってくださり、わたしたちの罪をすべてご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けてくださったということも示されています。

 この後、共にあずかる聖餐は、わたしたちがそのことを体を持って味わうるために備えられています。聖餐のパンと盃によってわたしたちは、主イエスが血を流して十字架の上で死んでくださったことによって、実現してくださった恵みにあずかるのです。さらに聖餐は、主イエスが神としての栄光に輝いて、天使たちとともにもう一度来られる。世の終わりのときに、父なる神のもとであずかることを約束されている祝宴の先取りでもあります。聖餐にあずかることによってわたしたちは、神の子としての栄光に輝く姿で来られる主イエスのもとで味わうご馳走を、前もってほんの少しだけ味わうのです。それによって、主イエスを待ち望む希望を確かにされて、その希望に支えられて、それぞれ自分の十字架を背負って主イエスに従っていくのです。

 ペトロは4節で、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」と言いました。これはそのまま礼拝に集っているわたしたちの思いです。礼拝においてみ言葉を聴き、聖餐にあずかり、わたしたちのために十字架の苦しみと死への道を歩み、救いを実現してくださった主イエスのお姿を示され、その主イエスが神の子としての栄光に輝くお姿で、もう一度来られることを待ち望みつつ、歩むことができるということは、何と素晴らしいことでしょうか。そのことに深く感謝し、御国の完成のためによき業に励めるように祈り求めてまいりましょう。

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