2026.2.22 受難節第1主日礼拝 説教要約
創世記 2章15~17節、3章1~7節
ローマの信徒への手紙 5章12~19節
マタイによる福音書 4章1~11節
本日は、「マタイによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書箇所の小見出しに、「誘惑を受ける」と書かれております。「誘惑を受ける」という言葉の元々の意味は「試す・テストする」という意味があります。主イエスがテストされ、合格かどうかを試されるということです。主イエス・キリストは、前のところに記されてありますけれども、神様から洗礼を授けられまして、いよいよ宣教を始められるというときに、神様の導きによって、悪魔の誘惑を受けられたのです。しかし、最終的に主イエスはその悪魔の誘惑に打ち勝たれました。 悪魔のことが3節では、「誘惑する者」と言い換えられています。悪魔の本質は誘惑する者です。つまり悪魔は、オカルト映画に出てくるようなものではなくて、わたしたちを進むべき正しい道からそらさせ、間違った道へと迷い込ませようとするものなのです。それでは、悪魔はここで主イエスをどういう道からそらさせ、どういう道へと迷い込ませようとしたのでしょうか。そのことを考えるために、悪魔は主イエスに三つの誘惑を仕掛けたということが、ここで語られています。その誘惑の一番目は、「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えていた」主イエスに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったことです。第二は、主イエスを「神殿の屋根の端に立たせて、神の子なら飛び降りたらどうだ。」天使たちが守ってくれるはずだと言ったことです。第三は、主イエスにこのような国々とその繁栄ぶりを見せて、もし、ひれ伏してわたし、つまり悪魔を拝むなら、これをみんなあなたに与えよう、と言ったということです。悪魔はこの三つの誘惑によって、主イエスを救い主としての正しい道からそらさせ、神への信頼を失わせようとしたのです。 ここにおいて、わたしたちに求められているのは、イエス・キリストがお語りになったことをしっかりと聴くことです。主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」といってこの誘惑を退けられたのです。「人はパンだけできるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、旧約聖書の箇所、申命記8章3節の引用です。この言葉は、パンなどを求めてはならない、この世のご利益を追求してはならないといった、そんな物質的な外面的なものではなくて、神の言葉をこそ求めなさいと、言っているのではありません。そうではなくて、主イエスは、主なる神はあなたがたにパンを与え、生きるのに必要なものを備えてくださる。しかし、神の恵みはそれに尽きるのではない。神はむしろもっと大きな恵みを与えてくださるのだ。それは「神の口から出る一つ一つの言葉」なのだ。わたしは、あなたがたが「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ものとなるという救いを、実現するためにこの世に来た。だからわたしは、石をパンに変えて人々に与えることはしない。それはかえって父である神がわたしを通して実現しようとしておられる救いを、見失わせてしまうことになると語っておられるのです。つまり主イエスは、ここでパンを与える救い主としての道ではなくて、わたしたちを「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ものとする、という救いを実現するものとしての道を選び取られたのです。わたしたちは、このことをしっかり見つめなければなりません。パンを求めること、この世の生活が守られ、支えられることを願い求めることは決して間違ってはいないし、神様は確かにそういう恵みをも与えてくださいます。 しかし、神はパンよりもさらに大きな恵みを与えてくださっているのです。それは「神の口から出る一つ一つのみ言葉によって生かされる恵み」です。その恵みを与えるために、神はその独り子主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。この神の恵みからわたしたちの目をそらさせ、パンのことばかりを見つめさせ、求めさせようとしているのが悪魔の誘惑なのです。悪魔の誘惑を退けたことによって、主イエスがわたしたちに示してくださっているのは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことにこそ、本当の幸いがあるということであり、主イエスをわたしたちにその幸いを与えてくださるためにこの世に来られたのだということなのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」それは神がわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちがそれを聴いて、そのみ言葉に応えていくという、神との交わりに生きることです。しかも、「一つ一つの言葉で」というのは、一度み言葉を聴いたら、もうそれで十分というのではなくて、日々新たにみ言葉を聴き、それに応えていくということです。しかし、「一つ一つの言葉で」ということを、神がお与えになった一つ一つの掟を細かく守ることによって、と捉えてはならないと思います。信仰を持って生きることは、細かい規則や戒律に縛られたり、ノルマを課せられて生きることではないのです。神様はわたしたちを掟で縛ろうとしておられるのではなくて、わたしたちの日々の具体的な歩みの中で、主イエス・キリストによって語りかけ、わたしたちとともに歩もうとしてくださっております。その語りかけのみ言葉一つ一つを日々しっかりと聴いて、それに応えて祈りつつ、主イエス・キリストとの交わりに生きることが、わたしたちの信仰です。主イエスとの交わりに生きている者は、神の愛を自分の思いや願いに照らして確かめ、神を試すようなことからは解放されています。つまり、神様を信頼して生きることができるようになるのです。主イエスが悪魔の誘惑を退け、神を試すことなく、父なる神を信頼して十字架の死に至る救い主としての道を歩んでくださったことによって、わたしたちにも神の愛を試すことなく、信頼して神の口から出る一つ一つの言葉によって、日々主イエス・キリストの父である神との交わりに生きていく道が開かれています。そのことをしっかりと心に留めて、希望をもって歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる