2026.2.15  降誕後第8主日礼拝 説教要約
申命記 30章15~20節
コリントの信徒への手紙一 2章6~10節
マタイによる福音書 5章21~26節
                          

「和解を求めて」

 本日は「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所には「殺すな」という律法の教えが取り上げられています。それは「人を殺してはならない」ということです。律法が「殺すな」と命じているのは、命は神のものであって人間のものではない、ということなのです。ですからこの戒めは他の人を殺すことを禁じているだけではなく、自殺をも禁じています。自分の命も、他の人の命も神のものとして大切にすることを、「殺してはならない」と律法は教えているのです。主イエスが「マタイによる福音書」の箇所でお語りになったのは、兄弟に腹を立てるものは、誰でも裁きを受ける。「兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる。」ということです。人を殺した者だけでなく、兄弟に対して腹を立てたり、ばかとか、愚か者という者たちも裁きを受けると言われたのです。主イエスがおっしゃっているのは、心の中で兄弟に腹を立てることと、愚か者と言うこと、それらはすべて人を殺すことと同じであって、神の怒りと裁きの対象なのだということです。この主イエスの言葉にわたしたちは途方に暮れる思いがいたしますが、それは単なる戒めということではなく、隣人との間で和解せよということを求めておられるのです。

 人を殺すということの根本には、人に対する敵意、怒り、憎しみがあります。そしてその根本には、自分自身に対する怒りや憎しみがあるとも言えるでしょう。そういう憎しみや怒りが解消され、自分自身との、そして人との、そして自分が生きている集団、社会との和解、仲直りが実現しなければ、人を殺すという問題は解決しないのです。主イエスはその根本的なところに踏み込むことによって、この律法の目指していることを実現しようとしておられるのです。

 今日のところにありますが、祭壇に供え物をしようとして、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、という教えも神への礼拝に先立って、兄弟と和解しなさいと言っているわけですが、それは兄弟と和解することによってこそ、神を正しく礼拝することができるからです。つまり、兄弟と和解することにおいてこそ、神と良い関係を持って生きることができると言っておられるのです。人との和解は人間関係を良くすることにとどまるのではなくて、神との関係を良くすること、神との和解へと繋がっているのです。先ほど人への怒りや憎しみの根本には、自分自身に対する怒りや憎しみがあると申しました。その自分自身への怒りや憎しみのさらに根本には、神への怒りや憎しみがあるのです。自分自身に対する怒りや憎しみというのは、自分の現実を自分が受け入れられない、自分がこのようなものであることを喜べないということです。自分に命を与え、このようなものとして生かしておられる神への怒りや憎しみがそこにあるのです。神への怒りや憎しみと、自分への怒りや憎しみは結びついており、そこから人への、社会への怒りや憎しみが生まれているのです。主イエスはそのような怒りや憎しみを抱えているわたしたちに和解をもたらして、怒りや憎しみから解放してくださるのです。その根本というのは、神との和解です。神との和解によって、自分自身との和解がもたらされ、そして自分自身との和解から人との和解、社会との和解が生まれていきます。その和解を実現することによって、主イエスは、「殺すな」という律法が目指していたことを実現しようとしておられるのです。

 主イエスは、わたしたちと神との和解を実現するためにこの世に来てくださいました。わたしたちは深い悲しみや苦しみを味わう中で、自分にこのような悲しみや苦しみを与えている神を憎んでしまいます。神の愛を信じることができず、神に敵対していく思いが、わたしたちの中にあるのです。それがわたしたちの人間の持っている罪ということです。そのような罪の中にいるわたしたちを救うために、神の独り子が人間となってこの世に来てくださったのです。人間となってくださった主イエスは、わたしたちの神に対する反感、敵意、罪をすべてご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んでくださいました。この主イエスの十字架の死によって、神はわたしたちの神に対する反感、敵意を乗り越えて、罪を赦してくださり、和解の手を差し伸べてくださったのです。主イエスの十字架の死によって実現したこの罪の赦しによって、つまり神が罪人であるわたしたちに注いでくださった大きな愛によって、わたしたちは神と和解し、神を愛し、良い関係を持って生きていくことができるのです。この神との和解を与えられることによって、わたしたちは自分自身とも和解することができます。今のこの自分が、そのままで神様に愛されていることを知らされて、その自分を受け入れ、愛することができるようになるのです。またそのように自分が神に愛されていることを知ることによって、自分に反感、敵意を持っている兄弟と和解して、つまりその兄弟をも愛することができるようになっていきます。もっとも、それは簡単なことではありませんし、わたしたちの決意や努力によってできることでもありません。しかし、主イエスの十字架の死による神の愛を信じて、神と和解して神との良い交わりを与えられていくならば、神の支えの中で、兄弟との和解をも諦めずに求めていくことができるのです。そこに「殺すな」という律法が目指していること、敵意や憎しみを乗り越えて互いに愛し、生かし合っていけることが実現していくのです。そしてそこに律法学者やファリサイ派の人々に勝る、主イエスによって救われ、主イエスに従っていく者たちの義が実現するのです。

 主イエスはわたしたちの神への反感、敵意、罪をご自分の身に受け止め、それによって傷つき、苦しみ、死んでくださったことによって、神との和解を実現してくださいました。わたしたちが兄弟姉妹と和解して生きるための道も、この主イエスとともに歩むところにこそあります。

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