2025.10.26 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教要約
エレミヤ書 14章7節~10節、19節~22節
テモテへの手紙二 4章6節~8節
ルカによる福音書 18章9節~14節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書の箇所では、ファリサイ派の人と徴税人が出てきます。このファリサイ派という人たちはどういう人たちかというと、十戒を中心とする神様の教えを正確に日常生活において、しっかりと守ることによって、神様の救いが与えられると信じて、自らも行いそして人にも教えていた人たちです。一方で、徴税人というのは、文字通り税を徴収する人です。当時イスラエル、ユダヤの地はローマ帝国に支配されておりました。税金を集める仕事は現地のユダヤ人に任せられていました。徴税人と呼ばれる人たちは、手数料を取って、税を集める仕事をしていたのです。当時はこの徴税人と呼ばれる人たちは大変に世間から忌み嫌われている人たちでした。なぜならば、彼らは異邦人であるローマ人の手先になって働き、さらに許し難いことにユダヤ人をだまして利ざやを不当に稼いでいたのです。 今回の話の中で、その二人がでてきます。「その二人が祈るために神殿に上った。」とあります。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝いたします。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」と神様に祈りを献げたということなのです。ここで「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」とありますけれども、これは当時定められていた教えよりもさらに厳しい基準でした。このファリサイ派の人は、決められた以上のことをしていて、神様の教えを守ることにおいては社会でも一生懸命守っている者だと認められる人だったのでしょう。一方で、徴税人は13節以下にあるように、「・・・目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と神殿で祈る人でした。この徴税人は、自分が世間から嫌われているということを十分知っていました。そして自分がこれまでしてきたことを非常に悔いて、自分はとても神様の御前で祈りを献げることができるような者ではないと痛切に思っていたのでしょう。14節に、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは」とあります。「義される」というのは、「神様に正しい者と認められる」という意味があります。世間一般から見れば、正しい者とされたのは、間違いなく神様の教えを真面目に実践しているファリサイ派のほうだと考えられたかもしれませんが、実際に義とされたのは、神様に正しい者とされたのは、ファリサイ派の人ではなくて、この徴税人であったのです。正しい者だと自分も考え、他人からもみなされていたであろうこのファリサイ派の人が義とされたのではなくて、世間から忌み嫌われていた徴税人の方がなぜ神様の前に正しい者だと言われたのでしょうか。 今日の聖書箇所の最初のところに、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」とあります。この「うぬぼれて」という言葉ですけれども、直訳しますと、「信頼する」という意味があります。このファリサイ派の人は自分に信頼し、そして他人を、特に律法を守れない人を見下していました。なぜならば、彼には誰よりも神様の教えを実践しているのは、自分だという自信があったからです。そして、日常生活において彼はそれを実践している。実践できているから、実践できない人たちを見下す。特に社会からつまはじきにされている徴税人のような人たちを、見下していたのです。このファリサイ派の人は、律法を厳格に守ることによって自分の力で救いを勝ち取ろうとしていたのです。一方、この徴税人は自分の力により頼むどころか、自分自身に絶望していた人でした。神の憐れみをひたすらに求め、「神様、憐れんでください」と祈ったのです。ここで「罪人のわたしを憐れんでください」と聖書では記されていますけれども、口語訳聖書では「赦してください」と訳されています。こちらのほうがより正確な訳だと思います。「憐れむ」というのは意訳です。ファリサイ派の人は、神様の教えに従うどころか、神様の教えに背き逆らっている、そういう罪深いわたしを赦してください、憐れんでくださいと神様の赦し、憐れみにひたすらにより頼んでいたのです。神様は、その対照的な二人をご覧になって、神様の前に正しい者とされたのは、徴税人の方であるとされたのです。徴税人は、他人の評価とか、他人と比べてどうかということももちろん気にしたのでしょうけれども、むしろそのことよりも、神様に心と体を向けて、神様の赦し、憐れみに寄りすがって祈ったのです。神様はその彼を義とされた。正しい者としてくださいました。一方わたしたちはどうでしょうか。神様の方を向くのではなくて、他人のほうを向いて、自分自身の評価を、すなわち他人からの評価を気にしている者なのではないでしょうか。わたしたちはともすれば、他人の評価を気にして、人と比べてどうかと、自分はまんざらでもないのじゃないかということで、他人を見下し、驕り高ぶってしまう、そういうところがないでしょうか。 わたしたちは、神様により頼む者ではなくて、神様を信じると言いながらいつの間にかおカネや財産、自分の能力、頼りになる友人などそれらを神様の代わりに拝んでしまうということがあるのではないでしょうか。わたしたちは、そのようなことから離れてひたすらに、この徴税人のようになって、神様に赦しを、憐れみを願う、そのような者でありたいと思います。そのようなわたしたちが赦されるために、イエス・キリストがわたしたちには到底耐えられない苦痛を、十字架の上で味わわれ、死なれました。そして神様は復活させてくださったのです。わたしたちを義としてくださるため、正しい者としてくださるために、神様はそのように大きな御業をなしてくださったのです。そのことをしっかりと心に留めて、希望をもって歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる