2025.10.19  聖霊降臨後第19主日礼拝《秋の伝道集会》 説教要約
コリントの信徒への手紙一 15章1~11節


                          

「神の恵みによって」

 本日聴いてまいります「コリントの信徒への手紙」というのは、パウロが書いた手紙です。

 このパウロという人は、ユダヤ教の熱心な信者でありました。指導的な地位にあった人です。ユダヤ教というのは、今わたしたちが手にしているこの聖書の旧約聖書の教えですね。十戒を中心とする律法の教えを信じる。ユダヤ教を信じる人たちは、そういう神様の教え、戒め、律法をいかに忠実に守るかということをとても大切にしていました。その神様の教え、律法を忠実に正確に守ることによって、神の救いにあずかれると信じていた人たちなのです。このパウロという人は、そういう意味で、本当に真面目に神様の教えを忠実に守ることにおいて、われこそは神様の教えを律法を忠実に守っているという自信があった人です。

あるときそんなパウロに、彼の人生が180度転換するようなことが起こりました。彼にどのようにして、その大転換が起こったのか。彼は、復活のイエス・キリストにお目にかかったことによってだと手紙の中で述べています。パウロという人は、キリストを信じる人たちを迫害していた人ですので、キリストを信じる人とは全く正反対の生き方をしていたのですが、ある時、復活のイエス・キリストに出会ったのです。3節以下に、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二に人に現れたことです。・・・そして最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とあります。彼はそのことを最も大切なこととして、受け取ったと言っています。まさにこのことが、救いの源であると彼は気づかされたのです。それまでの彼は、自分が律法の教えを忠実に守ることによって救われると確信していましたから、本当に真面目に律法の教えに従おうとして生きていたのです。そういう意味ではとても真面目な人だったのです。一方で彼は、その神様の教えを守れない人を見下し、馬鹿にしていたのでしょう。彼は、そのような人生を送っていたのですが、復活のイエス・キリストにお目にかかることによって、その生き方が180度転換させられました。キリストがわたしたちの罪のために死んだことと、イエスというお方が十字架にかけられて処刑されたこと、そのことにどういう意味があるのかということを、彼は悟らせられたのです。神様はわたしたちを救ってくださるために、わたしたちの罪が赦されるために、わたしたちの身代わりとして、自分の愛する子供であられるイエス・キリストを差し出されたのです。神様がそういうことをしてくださったということに彼は気づかされたときに、彼は命がけでキリストの教えを宣べ伝える者とされたのです。

 先ほどパウロが、旧約聖書の教え、律法の教えを忠実に守ることによって、神の救いを得られると考えて生きていたと申し上げましたが、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは生きていく中で、失敗ばかりしてしまいます。人を傷つけたり、何か失敗をしでかす。本当にそういうときには、自分のことが本当に嫌になってしまう。自己嫌悪ということですが、なんでこんな失敗ばっかりしてしまうのかと自分のことを責める。後悔ばかりしてしまう。なんでこんなに駄目なんだろうと自分を責めてしまうことがあります。しかし、何かそういう失敗ばかりしてしまう、ちゃんと決まり事も守れない、そういうわたしたちを赦してくださるために、神様は愛する御子を十字架にかけられたのです。わたしたちが失敗ばかりしている駄目な者であったとしても、そのままを、神様は愛してくださる。赦していてくださるのです。それらのことのために、愛する御子を十字架にかけられたということ、その御子を復活させてくださったということなのです。そのようなわたしたちを受け入れてくださるため、赦してくださるために、神様の側で大きな犠牲を払われたということなのです。ですから、わたしたちは、わざと失敗する必要はありませんけれども、一生懸命やろうと思っても、失敗ばかりしてしまう、失敗ばかりしてしまう、知らずに人を傷つけてしまったりする、そのようなわたしたちをも、神様が愛し、そのままで受け入れていてくださるということ、そのことが、今日ここでパウロが言っている福音なのです。福音とは「喜びの知らせ」という意味です。1節に「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。」とあります。また2節に、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」とあります。まさにわたしたちは、福音によって救われるのです。それはわたしたちの努力によることではなく、神様からの一歩的な恵みなのです。あのパウロが変えられたように、わたしたちも救いにあずかるために新しく変えられる。それは福音を聴くことによって、神のみ言葉を聴くことによって変えられるのです。それもまさに神の恵みによることなのです。それは10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言われている通りです。もっとも、パウロのように劇的な形で変えられるということは、滅多にないことでしょうけれども、徐々にわたしたちが変えられるということはあります。わたしたちが新しくされるというそのことのために、福音に聴かなければならないのです。ではわたしたちを救いにあずからせてくださるそのような福音を、どこで聴くことができるのでしょうか。それは、わたしたちが今こうしてお献げしている礼拝の中でわたしたちは福音を聴くことができるのです。わたしたちは古い自分に死んで、新しい自分に変えていただけるのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、聖書の言葉にしっかりと聴いて、神の恵みに感謝して、新たな自分に変えていただけるように祈り求めていきたいのです。

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