2025.10.12 聖霊降臨後第18主日礼拝 説教要約
列王記下 5章14~17節
テモテへの手紙二 2章8~13節
ルカによる福音書 17章11~19節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書箇所の最初に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」とあります。イエス・キリストが、お育ちになったガリラヤ地方からエルサレムへ旅をなさっておられたということなのです。当時歴史的な経緯もあって、サマリア人に対してユダヤ人は、敵愾心を持っていました。非常に嫌っていました。サマリア人もユダヤ人に対して同様でした。主イエスがそのサマリアとガリラヤの間を通られるということは、そういう緊張関係のあるところに行かれるということなのです。その地域のある村に入ったときの話ですが、「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちは憐れんでください。』と言った。」とあります。この重い皮膚病という病気にかかった人は、当時非常にひどい社会的な差別を受けていました。その人たちが、イエス・キリストがこの村に入られるということを知って出迎えたのです。主イエスはその人たちをご覧になって「『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。」とあります。ここで注意しなければなりませんのは、「『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」ということです。病気が治ったということです。目に見える保障がないにもかかわらず、彼らは祭司たちのところに向かったということなのです。十人が十人とも祭司のところへ行く途中で治る。彼らは本当に驚き、喜んだことでしょう。15節以下ですが、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。」この人はサマリア人だった。」とあります。十人のうち、この人だけがイエス・キリストのところにもどって来たというのです。 この異邦人であるサマリア人だけが、イエス・キリストのところにもどって来ました。おそらくこのサマリア人は、祭司のところに行かずに、病気が治ったとわかるやいなや、すぐに体をイエス・キリストの方に向けて、大声で神を賛美しながらもどったのです。そして、「主イエスの足元にひれ伏して感謝した」のです。19節に「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」とあります。これはどういうことなのでしょうか。彼らは、目に見える保証は何もないにもかかわらず、主イエス・キリストの言葉を信じて、祭司のところに向かっていったのです。そうしたところ、病気が治っていたのです。しかし、そのことを見て、「あなたの信仰があなたを救った。」と主イエスはおっしゃっているのでしょうか。確かにそのことも、信仰の中には入っているとは思いますが、むしろさらに本質的なことは、ほかのユダヤ人たちと違って、このサマリア人はまず、イエス・キリストの方に体を向き直って、イエス・キリストのところに、「大声で神を賛美しながら戻って来て」「イエスの足元にひれ伏して感謝」しました。そのことに主イエスは目を止められたのです。それこそが「あなたの信仰があなたを救った。」ということなのだと、主イエスはおっしゃりたかったのです。主イエスがここで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、病気が治ったことだけを言っているのではありません。もちろんそういうことも含めてなのですが、より本質的なところはどういうことでしょうか。このサマリア人が「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。」「神を賛美するために戻って来た」とありますが、これこそまさに、わたしたちが今お献げしている礼拝のことを指しているのではないでしょうか。神様に感謝し、神様を賛美する。大声で神を賛美しながらというのは、賛美歌を歌って、賛美歌を歌いながら戻って来たということでしょう。そして、「イエスの足元にひれ伏して感謝した」とまさにこれはわたしたちが主日の礼拝ごとにお献げしている礼拝のことなのだと考えて間違いはないでしょう。このサマリア人が救われたということ、それは、まさにわたしたちが今この礼拝をお献げしている、このことにわたしたちの救いはあるということなのです。主イエス・キリストの足元にひれ伏して、礼拝することにこそ、わたしたちの救いはあるのです。主の日の礼拝からわたしたちはそれぞれの生活に派遣されていきます。この礼拝の後、わたしたちは日常生活に戻っていく。楽なことよりも苦しいことの方が多い日常生活です。しかし、み言葉を携えて、一週間生活して、そしてまた主の日の礼拝に戻ってくる。その歩みの中で、わたしたちもこのサマリア人と同じように、信仰による救いにあずかっていきます。それは、ご利益信仰ではない、本当の意味での救いということなのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とありますが、この信仰というのは、先ほども申し上げましたけれども、大声で神を賛美し、そしてイエスの足元にひれ伏して感謝する、あなたこそ救い主、キリストであられますとの信仰の告白をして、礼拝をお献げする、そのことが救いなのだと、主イエスはここでおっしゃっているのです。さらに言えば、礼拝も含めて、わたしたちが日常の生活において主イエスにいつも祈り、感謝するということ、すなわち主イエス・キリストとの交わりに生きるということ、そのことがわたしたちにとって救いなのだということなのです。その主イエスというお方は、わたしたちの救いのために十字架にかけられ、そして、復活されたお方です。そのお方との交わりに生きることこそ、わたしたちの救いなのです。 閉じる