2025.9.28  聖霊降臨後第16主日礼拝 説教要約
アモス書 6章1a節、4~7節
テモテへの手紙一 6章11~16節
ルカによる福音書  16章19~31節
                          

「金持ちとラザロ」

         本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 弟子たちに主イエスが話されたお話です。ある金持ちがいて毎日ぜいたくな暮らしをして、遊び暮らしていたということです。本日の聖書箇所の20~21節に「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。」「犬もやって来ては、そのできものをなめた。」とあります。ラザロは物乞い、乞食ということなのでしょうけれども、おそらく毎日、この門のところに横たわっていたのでしょう。22節に「やがて、このラザロという貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」「金持ちも死んで葬られた。」とあります。さらに23節にその金持ちが「陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」とあります。死んで赴くところ、陰府というところですが、そこで、この両者は金持ちとラザロは、生きているときとは正反対の状況の中に置かれたのです。

 それではどうして、この金持ちがこういう苦しい状況に置かれたのか。それはこの後のところを読むとわかります。27節ですが、「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」とあります。この金持ちの父親の家に、兄弟が五人いるということなのです。その兄弟に言い聞かせてくれと、お願いするわけですが、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』と言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。」というのはどういうことなのでしょうか。これは、「預言者がいる」というふうに翻訳されていますが、元々原文では「持つ」という意味の言葉が使われています。モーセは、その兄弟の前に現れているということでがありません。ここでの「モーセと預言者」というのは、しばしば聖書に出てまいりますが、旧約聖書のことを指しています。旧約聖書に聴きなさい。耳を傾けるがよい。そういうことを、アブラハムは命じたのです。そうしましたところ金持ちは、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」と語ります。このように苦しい状況に金持ちが置かれたのは、悔い改めることをしなかったからだ、とここで主イエスはたとえ話を通して弟子たちにお示しになったのです。生前、この金持ちがこの貧しいラザロという物乞い同然の人に対して、親切にしなかったからこのような目に遭っているということも考えられますが、それは全く否定できないにしても、そういう報いのようなものも、もちろんそこには入っているとは思いますが、しかしより本質的には、彼は悔い改めることをしなかったからこのような苦しい状況の中に置かれていると主イエスはおっしゃっているのです。「悔い改める」というのは聖書には度々出て来ます。これはとても大切な言葉です。「悔い改める」というと、日本語でこのまま読むと、後悔すると、自分がしでかしたことを反省して、もう二度としませんというような、そういう意味にとられてしまいます。もちろんそういう意味もあります。しかし、より大切な意味として聖書で使われているのは、「向き直る」という意味です。本来であれば、わたしたちは神様の教えをしっかりと聴いて、神様の方にしっかりと向いて、神様のお守りのうちに、お導きのうちに神様に委ねて、歩むべき者たちであるわけですが、その神様の御手から、勝手に離れて、自分の好き勝手な生き方をしてしまう。わたしたちが生きているのは、神様の支えとお導きの許でわたしたちは神様にしっかりとより頼んで生きることが、わたしたちの生きる道であるにもかかわらず、その神様の御手を振り払って、神様から遠く離れてしまう。神様に背を向けて生きてしまう。そのことに気がついて、神様の方に向き直るということ、神様のところに帰っていく。神様に方向転換するという意味が、本来的な意味なのです。

 わたしたちは、あたかも自分の力で生きているかのように錯覚して、何とか自分の力でできないだろうかと言って、四苦八苦して悩みます。自分の力に頼ろうとして、自分に絶望してしまう。神様以外のものにも頼ろうとする。自分の力や、頼りになりそうな友人や知人、そして財産やお金、目に見えるそれらのものに頼ろうとする。わたしたちは神様を信じていると言いながら、実は自分自身を信じている。自分の持っているもの、神様以外のそういうものを偶像として崇拝しているのです。そのようなわたしたちが本来、戻るべきところに戻る、そのことが悔い改めるということなのです。

 使徒パウロは、「ローマの信徒への手紙」の中で、信仰は、イエス・キリストの言葉に聴くことによって始まると書いてます。その御言葉は、イエス・キリストのことを証しています。それはわたしたちの罪の赦しのために、十字架にかけられて、わたしたちには到底耐えることのできない苦しみを味わわれた後に死なれ、そして復活される、そのことが、わたしたちの救いにとって、計り知れない大きな意味を持つのだということを、聖書は証ししているのです。それをわたしたちが礼拝で聴くことによって、わたしたちの信仰が始まる、信仰が起こされるのです。29節に「モーセと預言者に耳を傾けるがよい」とありますが、御言葉に聴けば、悔い改めることができるということなのです。神様の方に向き直ることができます。しかし、それは自分の力でできることではありません。その力は御言葉に聴くことによってこそ与えられるのです。わたしたちは、「最後に頼れるのは自分だけだ」などという悲惨な言葉をつぶやくことなく、悔い改めて神様により頼むことによって、困難な状況の中にあっても、希望を持って歩むことができるのです。

    閉じる