2025.9.14  聖霊降臨後第14主日礼拝 説教要約
出エジプト記 32章7~14節
テモテへの手紙一 1章12~17節
ルカによる福音書  15章1~10節
                          

「罪人を救うために」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の最初のところで、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」とあります。徴税人や罪人と言われる人たちは、当時のイスラエル社会では、つまはじきにされていた人たちです。そういう人たちが、「話を聞こうとしてイエスに近寄ってき来た」のです。主イエスのところに近寄ってきた徴税人や罪人たちのその姿を見て、「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。」とあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちというのは、神の教え、律法を生活の中でいかに正確に守るかということ、そのことによって救いが得られると彼らは考えていました。そしてそれを正確に守るためには、どうすればいいのかということを民衆に教えていた人たちです。彼らは誰よりも清く正しく生きていると自認していた人たちです。その人たちが「不平を言い出した」とあります。

 そのことを受けて、彼らに向かって主イエスは例え話されました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」そして、見つけたら、大きな喜びが天にあるのだということなのです。百匹の羊を持っている人がいる。その一匹がどこかに行ってしまう。羊という動物は弱い動物です。一匹だけでは生きることができない。群れで暮らさなければ生きてはいけない弱い動物です。羊飼いに水場とか、草の生えているところに連れて行ってもらって、生きている。ときにはオオカミなどの野獣の襲撃があるかも知れないので、羊飼いにそれから守ってもらっている。群れで生きているはずの羊が迷い出てしまったというのです。その羊を捜して、見失った羊が見つかる。それが本当に喜ばしいことであるというのです。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」とあります。ここで言われている悔い改める必要のない九十九人というのは、どういう人なのかというと、このファリサイ派、律法学者たちのことを指しているのでしょう。これは彼らに対する皮肉とも受け取れるのです。失くしたものを見つけ出したときに持ち主の大きな喜びがある。次にあるのが、今度はなくした銀貨のたとえ話です。ドラクメ銀貨ということですが、一ドラクメというのは、当時の労働者の一日あたりの賃金に当たる額だと言われています。それを十枚持っていた女性が一枚をなくしたとすれば、一生懸命捜さないだろうかというのです。当時の庶民の家というのは、小さな窓しかなくて、室内は薄暗かったのです。「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」とありますが、ともし火をつけて這いつくばって、床を捜さなければ見つけられないような家の中で銀貨を見失ってしまったのです。ドラクメ銀貨一枚が見つかったらば本当に持ち主は嬉しいというのです。  ここでわたしたちが注意しなければいけないのは、この箇所のテーマというのが、「悔い改めなさい」というテーマだと第一に考えてしまいそうになるのですが、そうではないのです。羊は弱い動物ですので、自分の力で飼い主のところに戻ることは到底できません。ましてや、銀貨一枚が自分で持ち主のところに戻ることはできません。そうであるならば、ここで最も中心的に強調されていることは、無くしたものを見つけた持ち主の大きな喜び、というところにあると言わなければならないでしょう。ここで例えられているこの持ち主というのは、神様のことがたとえられているのです。わたしたちは神様のものです。神様のものであるわたしたちが、神様から離れてしまう。どこかに行ってしまう。実際に、わたしたちはたびごとに、しょっちゅう神様から背を向けて、迷い出てしまう一匹の羊ですし、失われた銀貨ということにもなります。わたしたちは神様のものである。神様の子供であるのにもかかわらず、そうやって神様から離れていってしまう。そういうわたしたちが神様のもとに戻っていく。そのことが、神様にとってもこの上のない喜びになるということなのです。それが「悔い改める」ということです。しかし、わたしたちの力だけでは、悔い改める、神様に向き直るということは、簡単にできることではありません。そういう弱い、神様から離れてしまった、失われた、群れから迷い出た羊のようなわたしたちです。

 そのような罪深い、神様に背き逆らってしまう罪深いわたしたちが、神様のもとに戻っていくことができるように、神様はわたしたちのためにこの地上に神様の子供であられるイエス・キリストを送ってくださいました。そして、主が、わたしたちの罪が赦されるために、大きな苦しみを味わわれて、十字架で死なれそして復活されました。わたしたちの罪に気づかせてくださるために、神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。イエス・キリストがいらっしゃらなければ、わたしたちがどれほどに罪深い者であるかということは、わたしたちは気がつかなかったでしょう。

 わたしたちはそのままでは、神様のもとに帰ることはできません。そのような弱いわたしたちのために神様は大きな犠牲を払ってくださったのです。神様は、たびごとに神様に背き離れてしまうわたしたちを、忍耐強く捜し求めていてくださいます。神様から背き離れてしまうわたしたちが、イエス・キリストによって、 神様のもとに戻ることができ、神様に見つけていただける者となります。そのことを何よりも、天の父なる神様は喜んでくださるのです。わたしたちは、そういう神様の喜びにあずかって、救いの道を歩んでいくのです。わたしたちがそのことに感謝して、希望をもって歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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