2025.9.7 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教要約
詩編 40篇1~18節
フィレモンへの手紙 9~10節、12~17節
ルカによる福音書 14章25~35節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日のところでは、主イエスがついてきた群衆に向かって、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とおっしゃいました。この聖書の箇所を読むときに、中心となるテーマは何かということを考えたいのですが、そのとき注目しなければならないのは、26、27、33節に、「わたしの弟子ではありえない。」という同じ言い方が三回も出てくることです。ということは、この言葉が今日の聖書の箇所の中心的な事柄だということが言えると思います。「わたしの弟子ではありえない。」とは直訳すると、「わたしの弟子であることはできない」とさらに解釈を加えて訳すならば、「わたしの弟子であり続けることはできない」という意味です。これこれでなければ、わたしの弟子であり続けることはできないのだと主イエスはわたしたちに覚悟を求められるということなのです。 26節に「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とあります。家族を憎まないならば、自分の命であろうと憎まないならわたしの弟子ではありえない。わたしの弟子であることはできないとおっしゃる。これはこのまま読むと、大変厳しいお言葉です。この憎むというのは、わたしたちが文字通りの意味での憎むということではなくて、当時この憎むという言葉が、わたしたちが受け取るそのままということよりも、相手に対して憎しみの感情を抱くということよりも、「背を向ける」とか、「身を離す」というような意味もあるのです。これは何をおっしゃりたかったのかということですが、わたしたちは愛する対象と言えば、まず家族のことを考えます。ほとんどの人が家族を愛している。しかし、その愛が、イエス・キリストを愛する愛よりも大きいということであれば、それは問題であるということなのです。これは、具体的に、父とか母とか子供、兄弟を感情的に、心理的に憎むということではなくて、「キリストについていきます」という決意、決断を示している。主イエスに従っていくという決意です。主イエス・キリストを信じるということにおいてそれほどの決断、覚悟を持って進んで行かなければいけない。中途半端な気持ちでいてはいけないのだと。そうでなければ、わたしの弟子であり続けることはできないと主は、はっきりとおっしゃとうろしているのです。 27節に「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とあります。自分の十字架というのはどういうことなのでしょうか。ここで言われているのは、わたしたちがイエス・キリストを信じて、この世で生きていく中で、どうしても背負わなければならない、十字架というのがあるわけです。キリスト教信者が圧倒的に少ないと言われている、この日本において、信者として生きていくということは、なかなか大変なことです。それは戦いであると言っても過言ではない。信仰生活を続けていくことが、自分の十字架を背負って主の後に付いていくということなのです。 また主は「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」とおっしゃいます。これは何をおっしゃってるのかということですが、一切を捨てて、自分の持っている物を財産とか一切を捨てて、出家しなさい、ということをおっしゃっているのでしょうか。そうではありません。これは、そういう出家しないと、わたしの弟子ではありえない、そうであるならば、わたしたちは、自分の持っているものを全部捨てなければならないことになります。ここで、言葉の問題ですけれども、「自分の持ち物を一切捨てないならば、」というこの言葉の「捨てる」という言葉ですけれども、これは原文では、お別れをする、暇乞いをするという意味です。さよならの挨拶をするということです。わたしたちの持っているものは、法律的には所有権は自分たちにありますが、しかしこれは、元々神様からお預かりしているものです。いつまでも自分のものだといってそれをにしがみついている。だれにも渡さないで、死ぬまでしっかり握りしめている。そういうことではなくて、そういう自分の財産、お金とかを、必要ならお使いくださいと言って、困っている人に差し出すことができる。自分の持ち物に対して、いつでもさよならが言えるくらいの自由な関係でありなさい。いつでも、困っている人に、欲しい人に使っていただく、そういう心で、わたしたちは物を所有している、使っているということなのです。ですからいつでも手放せる。そういう関係がここで言われているのです。 そして、さらに、最後のところですが、34、35節に「確かに使用は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」とあります。塩に塩気がなくなる。味がなくなる。本当に味のない塩というのは、役に立たないわけです。わたしたちはいつの間にかそういうものになってしまいかねないが、あなたは人の役に立ち続けるようになりなさい。いつまでも塩味を保っている者になりなさい、味のある人になりなさいということなのです。このようにして、わたしたちが生涯を終えるまで、わたしたちが主イエスの弟子であり続けること、主イエスの弟子であり通すためには、どのように覚悟をしなければならないのかということを、今日のところで、主イエスはおっしゃっているのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、信仰者として、主イエスの弟子であり続けるためには、どのような覚悟を持って歩まなければならないのかということを、しっかりとみ言葉に聴いて、悟れるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる