2025.4.27 復活節第2主日礼拝
詩編 118篇14~29節
使徒言行録 5章12~16節
ヨハネによる福音書 20章19~31節
                          

「見ないで信じる者の幸い」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

   先週、わたしたちはイースター礼拝をお献げいたしました。そのときに、イエス・キリストの復活という出来事が、いかにわたしたちの救いにとって、大きな出来事であるかということを御言葉から聴きました。今日の聖書の箇所は、イエス・キリストが復活のお姿を、弟子たちに現わされたというところです。

 弟子の一人のトマスに対して、復活の主イエスを見た経験をした人たちが、「わたしたちは主を見た」と何度もトマスに語りかけます。しかしこのトマスという人は、かなり疑り深いといいますか、何かはっきりとしたしるしがなければ信じることができないという、何事に対しても、曖昧にごまかすことができない人だったようです。そのトマスが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とはっきりと断言いたします。そうしたところ、その八日の後また戸に鍵をかけて弟子たちが中にいたとき、戸に鍵をかけていたにもかかわらず、イエス・キリストが真ん中にお立ちになって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とトマスにおっしゃいました。トマスという人は、別名「疑り深いトマス」というふうに呼ばれています。そういう疑り深いトマスの前に、イエス・キリストがその姿を現わされて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい、また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」とおっしゃいました。納得のいくまで、そのようにしたらよい、と主イエスはトマスに語りかけてくださったのです。その主イエスに対して、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」「あなたこそ、わたしの救い主であられます。神であられます」という信仰の告白をしたのです。トマスは、イエス・キリストが示された、手やわき腹につけられた釘跡や傷跡に自分の手を実際に触れたから信じたのではありません。そのようなことはせずに、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をしたのです。その29節に続いて、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とおっしゃいました。

 わたしたちはできれば、できることなら、イエス・キリストのお姿をこの当時の弟子たちのように、はっきりとこの目で見たいと思います。できることなら、そのわき腹と手も触ってみたいと思ったりしないでしょうか。実際、そのお姿を見ることができた人たちは、いたわけです。弟子たちはそのようにできたわけですが、その後は彼らが死んだ後でも、今わたしたちがこうしてこの礼拝をお献げしてます。イスラエルの地から遠く離れたこの日本において、わたしたちはいまこの御言葉に聴いております。そして、わたしたちそれぞれが、信仰持って歩んでいる。イエスこそ救い主キリストであるとの信仰の告白をして、歩んでいます。イエス・キリストがこの地上にいらっしゃってから二千年が経っていますが、その間連綿と信仰者の群れが生き続けてきている。そのことはまさに奇跡と言ってもいいことなのです。それではなぜそのような二千年もの間、教会が続いてきたのか。そして、世界の各地で、イスラエルからはるか遠く離れたこの地にも、聖書の教えが伝えられて、神を信じる群れが、生き続けてきたのか。二千年前の弟子たちは、イエス・キリストのお姿を見ることができた人たちです。しかし彼らが死んだ後、誰もイエス・キリストを見た人はいなかったのです。しかしそれにもかかわらず、神を信じる群れが起こされて、ずっと続いてきた。それはなぜなのか。それは最初の弟子たちがイエスというお方がメシア救い主だということを、多くの人たちに証ししてきたからではないでしょうか。イエス・キリストが生前してくださったいろいろなこと、彼の生き方、救いの御業、生前のお言葉を証しすることによってイエス・キリストが救い主であられるということを、彼らは多くの人たちに伝えていたからです。キリスト教会では「証し」ということがよく言われますが、自分がイエス・キリストの御言葉に聴くことによって、いかに救われたのかということを言葉と行いによって示す、地の塩・世の光として生きていく、そのことが証しということです。それも広い意味で言えば伝道です。そのことによって、「見ないで信じる」人がこの世に起こされ続けてきたのです。「見ないのに信じる人は幸いである」とイエス・キリストが言ってくださる。わたしたちは肉の目では、今はイエス・キリスト見ることはできませんけれども、しかし、み言葉を通して、信仰の先達たちとの交わりを通して、わたしたちは「見ないのに信じる者」とされるのです。わたしたちの身の回りの人たち、家族、友人、知人、地域社会の人たちにも、わたしたちは自分たちの生き方をもって、証することができます。自分がキリスト者であるということを、明らかにしていれば、周りの人たちは、はっきりとは言わないけれども、わたしたちのキリスト者としての言動を注視しています。だからといってわたしたちは、聖人君子のようになれるわけではありません。しかし、弱い者でありながらも、わたしたちはこのみ言葉によって救われているのだということが、はっきりとわたしたちが言葉に出さなくても、それがにじみ出ている。そう思うのです。伝道の方法というとき、「伝道集会がありますから、来てください」と言って、チラシを配ることも大切です。しかし一方で、わたしたちが、見ないでも信じている、信じることができている幸いな者として、この世を生きる、地の塩・世の光としてこの世で生きることによって神の救いを証ししつつ歩んでいくことも大切な伝道の業なのです。それはまさにわたしたちにとって幸いなことであり、そういう幸い、恵みを与えてくださる神様に感謝して、み言葉にしっかりと聴いて伝道の業に励める者となれるように祈り求めてまいりましょう。

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