2025.4.20 イースター礼拝
イザヤ書 26章6~10a節
ルカによる福音書 24章1~12節
                          

「復活」

 本日は、イエス・キリストのご復活を喜び祝うイースターです。

 イエス・キリストが復活なさったというのは、蘇生などではなく、実際に死なれて、完全に命を失って、そのお方が三日目に復活するということは厳然たる事実なのだということです。しかし、その復活の事実を、何か科学的な分析によって、この世の人たちに納得できるような形で示すことはできません。それは神様がなさった大いなる奇跡ということです。わたしたちはその奇跡を信仰によって受けとめるのです。わたしたちはイエス・キリストが復活なさったということの意味をしっかりと心に留めなければいけません。そうすることによって、わたしたちの救いとは何かということを、わたしたちが心と体をもって、受け止めることができるのです。

 イエス・キリストは、死んで復活なさった後に、天に上げられて天の父なる神様の右にお座りになっています。そして、聖霊としてわたしたちと共にいてくださるお方としてわたしたちのところに来られている。今わたしたちがこうしている間にも、イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださる。わたしたちはどこに行っても、イエス・キリストはわたしたちと共にいてくださるのです。それは、イエス・キリストが死んで、復活なさったからこそできることなのです。

 わたしたちにとって、救いとは何でしょうか。たとえば、わたしたちが信仰によって、心の平安が得られることでしょうか。もちろんそういうことも信仰の果実と言っていいと思います。しかし、わたしたちにとって最も大切なことは、イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださるということ、そして、わたしたちが死んでも生きる命を与えられているということです。わたしたちの救いは、わたしたちの命がキリストの復活の命と結び付けられているということ、一つにされているということなのです。

 さて、本日の聖書箇所で、彼女たちが墓に到着したところ、驚いたことに、その墓の石はすでに転がされていたとあります。彼女たちが墓の中に入ったら、「主イエスの遺体がどこにも見当たらなかった」とあります。「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」とあります。これはおそらく天使のことでしょう。天使たちが「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか、あの方は、ここにはおられない、復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言いました。主イエスが生前、弟子たちに、自分は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっているということを度々おっしゃっておりました。そのことを、当時それを聞いた弟子たちは、おそらく何のことだかわからないでいたのです。婦人たちも、男の弟子たちと一緒になってその主イエスの言葉を聞いていたのですが、そのことを天使たちに指摘されて、改めて彼女たちは思い出したのです。その婦人たちがその墓から出て帰りまして、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせました。しかしその弟子たちが、婦人たちの話を、たわ言のように思われたので、信じなかったのです。彼らはまさか主イエスが復活なさるということを全く予想してなかったのです。主イエスが生前自分は十字架につけられて、三日後に復活するとおっしゃっていたにもかかわらず、そのことを信じることができなかったのです。この聖書箇所の後のところで、「エマオで現れる」というところがありますが、弟子たちの前に主がその姿をあらわされたにもかかわらず、弟子たちはそれが復活の主イエスだと最初はわからなかったとあります。彼らは、主イエスの言葉を覚えていたはずなのですが、信じることができなかったのです。しかし、その後、彼らは目が開かれて、復活の主イエスがいらっしゃったということを信じることができたのです。このときの弟子たちは、わたしたちのことでもあるのではないでしょうか。  それではなぜ、わたしたちは主イエス・キリストの復活ということを信じることができるのでしょうか。今日の聖書の箇所の31節に「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。わたしたちの力でイエス・キリストの姿を認めるということはできません。それはあくまで、イエス・キリストがわたしたちに近づいてきてくださって、わたしたちの目を開いてくださる、そのことによってしか、わたしたちはそのことを認めることができないのです。わたしたちは、神様の言葉、聖書に聴くことによって、「イエスこそ救い主であられる」し、今もわたしたちと共にいてくださるということを、信じさせていただくのです。それはわたしたちの努力や決断でもってできることではないのです。イエス・キリストは救い主であられるし、今もわたしたちと共にいて、わたしたちを救っていてくださる。永遠の命に至る道を指し示していてくださる。そのことは、み言葉に聴くことによって、神様が起こしてくださるみ業なのです。わたしたちは日々様々なことで思い悩みます。わたしたちの人生は、楽しいことよりも、苦しいことの方が多いのです。突然、不幸な出来事が襲ってきて、わたしたちの心が千々に乱れるようなことがあります。しかし、わたしたちにどのようなことがあっても、永遠の命を生きられるお方が、わたしたちと共にいてくださって、わたしたちの命と一つになっていてくださるのです。終わりの日には、わたしたちの復活の命を与えられて、永遠の命に生きる希望が与えられる。それは復活の主がわたしたちと共にいてくださって、わたしたちに信仰を与えてくださっているからこそ、わたしたちはその希望に生きることができるのです。それがわたしたちに与えられた救いということです。このイースターにおいて、わたしたちはそのことを改めてしっかりと心に留め、感謝してこの救いのメッセージを一人でも多くの人たちに伝えるものにされたいと思うのです。

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