2025.4.13 受難の主日礼拝
イザヤ書 50章4~9a節
フィリピの信徒への手紙  2章6~11節
ルカによる福音書 23章44~49節
                          

「み手にゆだねます」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 わたしたちは、受難節・レントのときを過ごしておりますが、今日から受難週に入ります。イエス・キリストが復活された前の一週間を受難週として、教会は昔から礼拝を守ってまいりました。本日皆さんと読んでいく聖書のところは、わたしたちの救い主であられるイエス・キリストが、十字架の上で苦しみの極みを味わわれて、死なれるという場面です。イエス・キリストが死なれるということ、そのことの深い意味をわたしたちは、今日のところからしっかりと聴き取らなければならないのです。

 この十字架の刑罰というのは、当時最も忌み嫌われ、呪われた刑罰であると言われています。死刑囚を十字架につける。釘で両手両足を釘で打たれて、極めて不自然な姿勢でそのまま置いておかれる。何時間もそこに置いておかれるのです。両手を広げて十字架につけられると、上半身の体重によって呼吸困難になる。すぐに殺されるのではなくて、何時間も大きな苦しみの中に置かれるのです。そういう刑罰を主イエスは受けられて死んでいかれたのです。

 44節に「既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」とあります。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。イエス・キリストが十字架にかけられる、罪のないお方が無実の罪で死刑に処せられる、それはまさしく、わたしたち人間の最悪の、罪の残虐性といいますか、そういうものの極みが、イエス・キリストを十字架で死に追いやるとうことになったのですから、そのような人間の深い罪の深さというものをこの闇が表しているのではないでしょうか。そのときに、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」このイエス・キリストの最後の場面は、福音書ではいろいろな記述がなされていて、マタイよる福音書とマルコによる福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びをもって、絶望の極みの中で死に赴かれたとあります。一方、今日皆さんと聴いているルカによる福音書では、「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」」というお言葉です。「わたしの霊を御手にゆだねます」というのは、大きな信頼をもって全てをあなたにおゆだねするということです。「イエスは大声で叫ばれた」とあります。叫びというのは、元々大声でするものです。大声で声を出すから、叫びなのです。しかし、ここはわざわざ「大声で叫ばれた」と記されています。本当に大きな声で叫ばれたということなのです。これはとても平安のうちに死に赴かれたという状態ではありません。罪のないお方であられるイエス・キリストを十字架にかける。それはまさに、わたしたち人間の最も深い罪の有り様です。それは神様に最も大きく敵対する。神様にこれ以上にないほどの背きの状態を表しています。そのとき神様から最も離れた状況の中に、世界は置かれていたのです。人間が神様から最も遠く離れていたかのように思えたそのときに、イエス・キリストは、天の父なる神様に向かって神様を呼び寄せようと祈り願って大きな声で叫ばれたのです。

 45節に「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」とあります。これはどういうことを示しているのでしょうか。当時、神殿には、神殿の奥の方に垂れ幕が下がっていて、至聖所と呼ばれるところがありました。それは神殿の祭司がいけにえを捧げるために、赴く部屋でした。その垂れ幕の奥に神様がいらっしゃるとされていました。人間が神様のお姿を見れば、死ぬと言われていました。そうならないように神殿に垂れ幕が下げられていたのです。神様と人間との間を隔てる垂れ幕が下がっていたのです。イエス・キリストがこのいまわの際に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、地上の生涯を終えられました。そのときにまさに神殿の垂れ幕が、真ん中から裂けたというのです。それは何を意味しているのでしょうか。人間と神様との間を隔てる幕が裂けることによって、このときから罪深いわたしたち人間が、神様と交わりを持つことができるようになったのです。それは大きな出来事でした。

 全く罪のないお方であり、わたしたちの救い主であられるイエス・キリストが、十字架上で苦しみの極みを味わわれて、死なれる。それは聖書では、わたしたちの罪が赦されるため、わたしたちが救われるためであったとされています。全く罪のないお方が、本来であればわたしたちが裁かれるべきなのにその罪を、自ら代わりに担われて十字架にかけられる、そのことによって、わたしたちの罪が赦される。わたしたちは日常、これまでもいろいろな罪を犯してまいりました。今もこれからもどんなにがんばっても罪を犯さざるを得ない者たちです。罪を犯すたびごとに、わたしたちは苦い後悔の思いにとらわれて、自分で自分を責めるようなことをするのですが、「罪赦された」ということは、わたしたちはもはやいつも自分で自分を責め続ける必要はなくなったということなのです。良心の刃で自分自身を切り刻み続けるなどということは、もう必要なくなっているのです。それは、イエス・キリストの尊い犠牲が払われたからこそなのです。イエス・キリストは、わたしたちには到底耐えることができない苦しみを受けられ、死なれました。そのイエス・キリストの苦しみの深さ、悲しみの大きさということが、いかにわたしたちの罪がそれほど深く大きいかということを表しています。イエス・キリストによって、わたしたちの罪が赦される。まさにそれは、わたしたちの救いです。わたしたちが気がつかずに犯してしまう罪も、後で気がついてしまった罪も、イエス・キリストが全て担ってくださっています。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、感謝して受難週の日々を歩んでまいりましょう。

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