2025.4.6 受難節第5主日礼拝
ヨシュア記 5章10~12節
コリントの信徒への手紙二 5章17~21節
ルカによる福音書 15章11~24節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
ここに登場する放蕩息子は、実家と遠く離れたところで、放蕩の限りを尽くして親からもらった財産を使い尽くして困り果てて実家に戻ろうといたします。本来であれば、「お前はもう家の敷居をまたがせない」と言われてもおかしくないようなことを、彼はしでかしてしまったわけですから、彼は本当にビクビクしながら、家の方に向かって歩き出したのでしょう。20節に「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。ここは何気なく読み飛ばしてしまいそうですが、なぜこの父親はまだ遠く離れているのに息子が返ってくることに気がついたのでしょうか。今だったら遠く離れていても、携帯電話で電話して、「今から帰ります」というようなことを言えば、お父さんは玄関に出て息子を出迎えるということはできますが、当時はそんなことはできません。それは、毎日のように息子の帰りを表で待っていたからこそ、彼は遠くの方にいた息子の姿を見つけることができたのです。本来であれば、お前なんか家の敷居はまたがせない、とっとと出て行け、ぐらい言われてもおかしくないことを彼はしでかしたのです。しかしにもかかわらず、驚いたことに、父親は「走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。そして、息子が「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」その後の言葉をどう言おうかと彼は考えて、雇い人の一人として雇ってくださいと言おうとしたのですが、その息子の言葉を遮って、「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」とあります。敷居をまたがせないどころか、お祝いをしようと祝宴を始めたというのですね。本来であれば、本当にもう、とっとと出て行けと言われてもおかしくない状態だったわけですが、しかし、このようにして、父親は出迎える。愚かな父の愛と言われてもおかしくないことです。こんなどら息子をそんな風にして迎えたらば、その息子はつけあがるだけだと何をやっているんだと人から言われてもおかしくないような、父親のこの喜びようです。「親バカ」という言葉がありますが、親バカの極みと言われてもおかしくないようなことをこの父親はしたわけです。この父親は神様のことがたとえられていますが、人間の親以上の、わたしたちの想像を超える愛をお示しになる。自分から離れてしまって、どこかに行ってしまったけれども思い直して、神様のところに帰ってくる、それが「悔い改め」ということですが、そのわたしたちを憐れに思って、走り寄って首を抱き接吻する。そして祝宴を開いてくださる。それほどまでに深い愛をもって、神様はわたしたちを愛していてくださるのです。わたしたちが悔い改めて帰ってくるのをいつも待っていてくださるのです。その愛はどういうところに究極的に表されているのでしょうか。それは自分の愛する御子を独り子を十字架にかけるという、そのような大きな犠牲において表されているということなのです。そのことによって、神様はわたしたちの罪を赦してくださる。そして、わたしたちがどういう者であっても、立派な人間でなくても、失敗ばかりする、人のことは愛せない、愛せないどころか憎んでしまう、相手を傷つけてしまうようなわたしたちをも、そのままで赦し、受け入れてくださる。そのことが、イエス・キリストの十字架によってなされる。そこにわたしたちへの神様の愛が何よりも明らかに示されているということなのです。わたしたちは弱い者たちですので、たびごとに神様に背き逆らい、神様以外のものに手を合わせてしまう。本音と建前といいますか、神様を信じていると言いながら、しかし、「いざとなったら頼りになるのはお金や財産、頼りになる自分の友人や知人だ」と、さらには「最後に信じることができるのは自分自身しかいない」というようなまことに悲惨な思いにとらわれるわたしたちです。神様以外のものを神として拝む。自分の欲望をも拝んでしまう。そのようにしてわたしたちは、神様に背き逆らってしまう。それが聖書でいうところの「罪」ということです。そうやって神様からの本当の深い愛を忘れて、神様から遠く離れて自分の好きなように生きていこうとしてしまう。そのようなわたしたちに対して、神様はわたしたちが悔い改めて、神様に向き直って帰ってくることを、いつも待っていてくださるのです。そして、わたしたちが神様に向き直るということを、何よりも喜んでくださる。今日ここに皆さんと聴いているみ言葉のこの父親のように、人間の常識で言えば、愚かな親の愛と言われても仕方がないような、わたしたちの想像をはるかに超える深い愛をもって迎えてくださるのです。このわたしたちの悔い改めを何よりも喜んでくださるその神様の愛、そのことに応えて生きるということが、わたしたちの救いなのです。わたしたちはしかし、そのような深い神様の愛に応えて、いただいた恵みに等しいことはことはできませんが、イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とおっしゃっている。わたしたちもその呼びかけに応えて、それぞれ自分の十字架を背負って、み言葉にしっかりと聴いて生きることが大切なのです、そのように歩める者となれるようにいつも祈り求めてまいりましょう。 閉じる