2025.3.30 受難節第4主日礼拝
出エジプト記 3章1~8節、13~15節
コリントの信徒への手紙一  10章1~6節、10~12節
ルカによる福音書 13章1~9節
                          

「悔い改めの実」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心に、み言葉を聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の冒頭で、何人かの人たちが来て「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という事件があったということを、主イエスに告げました。ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたということですが、これはどういうことなのでしょうか。実際にガリラヤ人を殺して血を混ぜたということよりも、神殿でガリラヤ人たちを殺した、というように読むのが自然な読み方です。ガリラヤ人たちが殺されてしまった。何人か殺されてしまったという悲惨な事件があったということなのです。そこで、なぜガリラヤ人たちが、こんな目に遭わなければいけないのか、と考える人が出てきます。他の殺されなかったガリラヤ人に比べて、この殺された人たちは、罪深い人たちだったからだ。だから彼らは殺されてしまったのだ。罪深い良くないことをしてきたから、彼らは殺されてしまった。悪いことをすれば悪いことが起こる。因果応報という考え方があります。良いことをすれば良いことが起きるし、悪いことをすれば、悪いことが起きてしまう。それはある意味で合理的な考え方ではあります。非常にわかりやすい。しかし、主イエスはそのことを否定なさいますし、問題はそういうことではなくて、滅びは因果応報とは関係なく、悔い改めるかどうかにかかっているのだとおっしゃるのです。「悔い改める」というのは、よく聖書に出てきます。「悔い改める」というのは、何か悪いことをしてそのことを反省する。悔いるという意味もありますが、もっと大切な意味は、神様にすっかり背を向けているわたしたちが、神様にしっかりと向き直るということを意味しています。向き直るということ、方向転換するという意味が、元々のこの言葉の意味なのです。

 ところで、6節以下の話が、このガリラヤ人が殺されたという話の後に続きます。ある人がいちじくの木を植えておいたのですが、「ある人が実を探しに来たが見つからなかった。」とあります。三年もの間、見に来たのですが、「その実がなったためしがない。だから切り倒せ、なぜ土地をふさがせておくのか。」と言ったのです。ここで園丁が出てきます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」とその園丁が言いました。ある人とは、この土地の地主でしょう。園丁は地主に懇願するわけです。この話と前の話は、ここで小見出しで分けられていますが、続いている話です。この実がならない、地主は三年もの間待ってたのです。しかし実がならない。彼はもう堪忍袋の尾が切れて、もう切り倒してしまえと言っている、この例えについては、いろいろな解釈がなされています。前の話との関連からすれば、三年もの間に実を実らせることのできない木というのは、わたしたちのことを指しています。「悔い改めよ」と言われても、悔い改めることができないわたしたちのことです。そういう中にあっても、この主人、神様は、わたしたちを待っていてくださるのです。その中で、この園丁は、主人に向かって執り成しをしています。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでも駄目なら、切り倒してください。」園丁であるイエス・キリストが、わたしたちのために神様に執り成しをしてくださっている。もう少しお待ちください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。イエス・キリストは、懸命に神様にとりなしをしてくださる。ついにはご自分の命をも犠牲にして、わたしたちのために、わたしたちが生きるために、神様にとりなしをしてくださる。その究極がイエス・キリストの十字架ということです。ご自分の命を犠牲にしてくださって、神様にとりなしをしてくださったわたしたちの救い主イエス・キリスト。主イエスが、わたしたちが「悔い改めよ」と言われても、いつまでたっても悔い改めることができない、そのわたしたちのために、神様にとりなしをしてくださる。わたしたちは、自分の力だけで悔い改めることができないのです。わたしたちが心から神様に悔い改めて、向き直るために、イエス・キリストが十字架にかかってくださいました。わたしたちにはとうてい耐えることができないような苦しみを味わってくださいました。前のところ(9章23節)で「わたしについて来たい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスが命じておられます。それは、前回申しましたが、主のみ言葉にしっかりと聴いて、主に従っていくということです。イエス・キリストがわたしたちのために、わたしたちが悔い改めるために、十字架にかかってくださる。わたしたちはそのことを感謝して、主の御言葉に聴いて、その御後に従っていくのです。そのことによって、頑なな心を持つわたしたちが、神様に向き合う、悔い改めるということが起こされるのです。そのときわたしたちが本当に苦しみ悩み、困難な状況の中にある時であっても、わたしたちにまことの平安が与えられる、そういう苦しみの中にあっても、生きていく力が与えられるということなのです。そのことおいては、わたしたちは自分の意思や決断というものも求められています。この今日の最後のところで、「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」とあります。この園丁は、「来年は実がなるかもしれません。」それまで待ってくださいと言ってるわけです。ですから、わたしたちはいつまでものんびりとしていることはできないのです。そのことをしっかりとわたしたちは心に留めて、これからの日々を神様に向き直って、悔い改めて歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。

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