2025.3.23 受難節第3主日礼拝
創世記 15章5~12節、17~18節
フィリピの信徒への手紙 3章20節~4章1節
ルカによる福音書 9章28~36節
                          

「これはわたしの子」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書の冒頭に、主イエスが「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」とあります。山に登られたときに、驚くべきことに、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。そしてさらに驚いたことに、モーセとエリアの二人が、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあります。驚くべきことが、弟子たちの目の前で起きたということなのです。モーセとエリアというのは、旧約聖書に出てくる人たちです。彼らは、いわば旧約聖書を代表する人たちと言っていいと思います。その旧約聖書を代表する二人が、栄光に包まれて現れて、主イエスと語り合っている、この有様を見て、弟子たちは本当に驚いたのです。

 栄光に輝くお姿を、イエス・キリストが弟子たちに示してださったのですが、イエス・キリストが十字架にかけられて殺される前、そのご生涯においては、このような栄光のお姿ということは、聖書には一度しか記されておりません。そういう光輝くばかりの栄光のお姿を、主イエスが生前に現されたということはここを除いてはありません。今日皆さんと聴いているこの箇所だけです。このところは本当に特別な場面だということが、そのことからもわかります。ではなぜ神様は、この弟子たちだけに、このときだけ一度限り、このようなことを弟子たちに見せたのでしょうか。それは、キリストのエルサレムでの最期についてそれが栄光のお姿であるということをわからせるためです。

 31節に「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあります。ここにあります「最期」という言葉ですが、これは原文では「エクソダス」となっています。「出エジプト」を表している言葉です。脱出するとか、脱出する道という意味があります。この「最期」というのは、「エルサレムで遂げようとしておられる最期」とありますから、イエス・キリストが十字架で殺される、そのことを表しているように見えますけれども、それだけではないのです。エジプトから脱出して、イスラエルの民が約束の土地に導かれる、それはまさに栄光の道ということです。救いへの道ということですから、エルサレムでも主イエスの最期というのは、十字架の上で殺され、そして復活なさる、そして天に登られるまでをも含んでいると言っていいでしょう。まさにそれが、この世に来られた主イエスの栄光のお姿そのものであるということなのです。

 20節に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とあります。その主イエスの問いに対して、あなたは「神からのメシアです」、あなたは救い主であられますと、ペトロは答えたのです。しかし、その後、主イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活にすることになっている。」「・・・わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とおっしゃいます。弟子たちは、イエス・キリストこそ栄光そのものであるお方であり、救い主であられるということは自分たちも十分に知っているつもりでいたのですが、その道が十字架にかけて殺されるという、およそわたしたち人間の目からすれば、栄光の欠片もない、むしろ恥辱にまみれた、栄光の姿とは全く反対の道、敗北の道なのだととられかねないことを主イエスはここで弟子たちにお語りになりました。彼らはそれを聴いても何のことだか全然わからなかったはずです。主イエスが神様から与えられる栄光とはどういうことなのか。それこそがまさに、十字架で殺されて、復活なさることである。それはまさにわたしたちの罪が赦されるためであり、救いのための出来事であったわけですが、それが人間の目から見れば屈辱と敗北としか見えないのです。しかし、そのようなお姿こそが、イエス・キリストの救い主としての栄光のお姿なのだということを、ここで神様が弟子たちだけに垣間見させてくださったのです。そしてその恐れの只中にいる彼らに向かって、神様が雲の中から語ってくださいました。35節に「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」とあります。それは、23節に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とあるように、イエス・キリストのみ言葉に聴いて、主イエスの御後に従えということなのです。わたしたちの救い主であられるイエス・キリストのみ言葉に従って、それぞれ自分の十字架を背負って、従うときに、御子イエス・キリストの栄光の姿をわたしたちも垣間見ることを赦されるのです。わたしたちの人生の歩みの先には、わたしたちが終わりの日に復活の命を与えられて、永遠の命をいただけるという希望が与えられています。自分の十字架を負って、わたしに従えという道は、わたしたちには苦しいだけの道に見えてしまいますが、

しかし、それこそがわたしたちが主の栄光にあずかること、栄光の姿を垣間見ることが赦される道なのです。そして、イエス・キリストがこの地上で苦しみ抜かれ、十字架の上で苦しみの極みを味わわれて死なれ、復活なさったという意味が、わたしたちにとって単なる知識としてではなくて、信仰によってわたしたちの血肉となるようにされるのです。わたしたちは今日のところからそのことをしっかりと学び、心に留めて、復活節までの日々を悔い改めの心をもって祈りつつ、しっかりと歩んでまいりましょう。

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