2025.3.16 受難節第2主日礼拝
申命記 26章4~10節
ローマの信徒への手紙 10章8~13節
ルカによる福音書 4章1~13節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書箇所の冒頭に、「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあります。聖霊に満たされた主イエスが、その聖霊の導きの中で、悪魔からの誘惑をお受けになったのです。悪魔は主イエスを誘惑し、救い主としての働きを挫折させようと働きかけましたが、それは実は聖霊の導きの中で起ったことなのであって、主イエスは聖霊に満たされてその誘惑と戦い、打ち勝たれたのです。 主イエスが戦い、打ち勝たれた悪魔の誘惑とはどのようなものだったのでしょうか。悪魔はここで三つのことを主イエスに語りかけました。 第一の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」ということです。神の子である主イエスは、石に命じてパンに変える力を持っておられるのです。その神の子としての力をどのように用いるのか、というこれは問いです。これは大変魅力的な、あるいは切実なことです。今も世界には飢えている人々が大勢おり、餓死する人が毎日出ていることを私たちは知っています。そこらの石をどんどんパンに変えることができたらそういう人々を救うことができるのに、と私たちも思います。その方がよほど人々を直接的に救うことができる、と思ったりします。しかし主イエスにとってそれは悪魔の誘惑なのです。主イエスはその誘惑を退けられます。主は、神の子としての力をそのように用いることはなさらないのです。そこで主イエスが語られたのが、申命記の8章3節の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」。悪魔が言っているのは、「神の子としての力を自分のために、自分の飢えを満たすために用いろ」ということです。主イエスはその誘惑を、「人はパンだけで生きるものではない」というみ言葉によって退けました。それは「神の子としての力を、自分の飢えを満たすために用いるつもりはない。その力は、自分のためではなく、人々の救いのためにのみ用いるのだ」、ということです。ご自分のためではなく、私たち罪ある人間の救いのために神の子としての力を用いて下さる、主イエスの神の子としての歩みはそのようになされていったのです。その行き着く先が、十字架の死だったのです。 次に、第二の誘惑において、「悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。」とあります。そして、「もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄の全てを与えよう」と言いました。この誘惑のポイントは、悪魔を拝め、ということです。悪魔を拝むなら、この世の権力と繁栄が得られるというのです。主イエスはその誘惑を、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記のみ言葉によって退けました。権力や繁栄という悪魔的な力の虜になることから逃れるための唯一の道がここに示されています。それは、主なる神様を拝み、つまり礼拝し、神様にのみ仕えることです。神様を礼拝することによってのみ私たちは、権力や繁栄という悪魔的な力の誘惑から逃れることができるのです。本当に拝むべき御方を拝んで生きることによってこそ、拝むべきでない、私たちを奴隷とする力を拝むことから解放されるのです。 今この世界が、その権力や繁栄が、悪魔の支配下にあり、まさに悪魔的な力としてそれが猛威を振るっているように思われても、それらを最終的に支配し、導かれるのは主なる神様であり、そのご支配は最後にはみ子イエス・キリストのものとなるのです。悪魔を拝むのか、主なる神様を拝むのか、ということがここで問われていますが、それは、この世界を最終的に支配するのは、主イエスの父である神様なのか、それとも悪魔なのか、という問いです。主イエスは、ご自分の父である神様こそが世界を本当に支配しておられる方であると信じ、悪魔を拝むことを拒み、神様のみを礼拝することによって、神の子としての歩みを全うされたのです。その歩みを貫かれたことによって、主イエスはこの世界を最終的に支配する方となることができたのです。それによって私たちの救いが実現しました。 次に、第三の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りてみろ、というものですが、主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という、これも申命記の言葉によってこの誘惑を退けられたのです。つまり主イエスがここで拒んだのは、「神を試す」ことです。悪魔のこの誘惑は、神を試させようとする誘惑なのです。神を試す、それは、本当に神様がおられ、自分を守り導いて下さるのか、神様を信じ、依り頼んで本当に大丈夫なのか、ということを、試して確かめようとすることです。そして自分で確信が持てたら、大丈夫と安心できたときに初めて、新しく歩み出すことができる、ということです。信仰において大切なことは、神様に信頼して自分を委ねることです。試して、確かめてからではなくて、信じて、一歩を踏み出すのです。しかし私たちには、なかなかそれができません。どうしても、神様を試したくなるのです。確かめて安心したくなるのです。主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、そのような私たちのためです。神の子である主イエスが、人間となってこの世を歩んで下さり、そしてこの悪魔の誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。それは主イエスが、神の子として、父である神様を深く信頼して、神様を試したりその恵みを確かめたりすることを拒んで、ご自分を委ねて歩んで下さったということです。私たちにはなかなか出来ないことを、まことの神の子であられる主イエスが、私たちの先頭に立ってして下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくのです。そのことによって、私たちも神の子とされます。そのことがまさに私たちにとっての救いなのです。私たちはそのことを確信して希望を持って歩んで行きたいのです。 閉じる