2025.3.9 受難節第1主日礼拝
列王記上 8章41~43節
ガラテヤの信徒への手紙 1章1~2節、6~10節
ルカによる福音書 7章1~10節
                          

「だた、お言葉をください」

 本日は、新約聖書の「ルカによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 カファルナウムに、自分の僕(奴隷)が病気で死にかかっている百人隊長がいて、主イエスは彼に僕の救いを請われて、百人隊長の家の近くまでやってきました。そうしたところ、百人隊長は「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と言いました。普通に考えれば、自分がお願いをするという立場にあれば、自分から出向いてお願いするのが常識ですが、彼はそうしなかったのです。使いをやって、そのお願いをする。ちょっと考えれば、それは失礼なことだと取られてもおかしくない行為でしたが、彼はあえてそのようにして、主イエスに会わずにお願いをいたしました。それはどういうことなのでしょうか。これは、その理由は何だったのでしょうか。まず考えられることは、神の救いは、神の民イスラエルの上に注がれるというのが、旧約聖書の考え方であり、そのことをこの異邦人である百人隊長はよく知っていて、異邦人であるわたしには、あなたの救いをいただく資格はありません、とこの百人隊長は考えて、あえて主イエスに会うことはしなかったということなのです。さらにもう一つ、考えられますことは、自分は罪深い者であるので、とても救い主の前に出られるものではないという、彼の謙遜ということです。このように、この百人隊長は、とても自分が主イエスの前に出て、救いをお願いできるような者ではない、と考えたのでしょう。そういう彼の謙遜さということですが、それは自分は救いにあずかるにふさわしいものではないという、彼のその罪悪感といいますか、そういう罪の自覚ということです。しかし一方では、自分が本当に大切にしている僕を、本当に死にかかっている僕をなんとか救ってもらいたいという強い願いがありました。そのまま放っておいたら、確実に死んでしまうような、本当に死にそうな状況にあったわけです。では百人隊長はどうしたのでしょうか。7節に「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」とあります。この「ひと言おっしゃってください」というところが、口語訳聖書では、「ただ、お言葉をください。」という訳になっています。「あなたの言葉をください。そうすれば、僕は救われるのです。」ということです。百人隊長は、主イエスのみ言葉の権威、力のことを彼は十分に知っていたのです。

 ではなぜ彼はそのようなことを知っていたのでしょうか。それは、8節に、「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」とあります。軍隊においては、上官の命令は絶対だったということです。上官の命令があれば、その通りに従う。上官の命令に兵隊が従わなかったりしたら、統率が取れませんので、戦いに勝つことはとてもできない。そういうことで、軍隊においては、上官の命令は本当に権威がある、力があるということでしたので、この百人隊長は、自分の職務からも、自分の言葉というものが、上官としての隊長の言葉がどれだけ権威があって、力があるかということを、彼は十分に経験上知っていたのです。自分はあなたの前に出られるような者ではありませんという態度、気持ちを持っていた、その百人隊長こそ神の救いを受けるにふさわしい者だとされたのです。わたしたちは、主イエス・キリストのみ言葉として、以前に、「貧しい人々は、幸いである」という箇所を読みました。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」なぜ貧しい人々が幸いなのかというと、「貧しい」というのは、経済的に貧しいという意味だけではありません。たくさんお金を持っていたり、能力があって、自分で自分を救うことができない人たち、経済的に貧しい人たちや、徴税人のように他人から軽蔑されている人たち、娼婦やその他、社会からつまはじきにされているような人たち、そして子供たちのように、大人の助けを得なければ生きられないような存在、そういう人たちが「貧しい人たち」だと、主イエスはおっしゃるのです。そのような人たちは、幸いである。神の国はあなたがたのものである。神の国というのは、神のご支配ということですが、神の救いと言ってもいいと思います。神の救いは、あなたがたのためのものだということなのです。ここでわたしたちは、その貧しい人たちの中に、自分自身が貧しい者だと考えているこの百人隊長も入っているのだということに気づかされるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」という御言葉が、まさにこの今日の箇所でも実現しているということなのです。

 9節に「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」とありますが、「これほどの信仰」というのはどういうものなのでしょうか。それは、自分で自分を救うことができない者として、貧しい者として神様の前に立ち、「ただ、お言葉をください」と言って、主イエスのみ言葉の権威と力により頼む、主イエスからの恵みを、憐れみをひたすら待つ信仰です。恵みを受けるに値しない自分にも、み言葉を与えてください、とみ言葉が与えられることをひたすら待つ、そういう信仰を主イエスは褒めてくださったのです。救いは、ひたすら貧しい者として、大人の助けがなければ生きられない子供のように、主イエスにお従いして、憐れみをひたすら待つ、そのような者にこそ、神の救いが神様の憐れみによって与えられるのです。

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