2025.3.2 降誕節第11主日礼拝
イザヤ書 55章10~13節
コリントの信徒への手紙一 15章50~58節
ルカによる福音書 6章39~42節
                          

「死は勝利にのみ込まれた」

 本日は新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いてまいりますこの箇所は、よく葬儀のときに取り上げられる箇所でもあります。人間は必ず誰一人例外なく、地上の体が滅びて、すなわち死ぬ。しかしわたしたちは、そういう事実を、なるべく見ないようにして生きています。死というのが、全ての終わりであり、滅びであると本当に恐ろしいことであるとわたしたちが捉えてしまうからです。本当に死というものがよくわからないものである。そういうこともあって、わたしたちは本当に、死ということを恐ろしいものだと捉えてしまいます。なるべく考えないようにする。しかし、このわたしたちが必ず死ぬというこの冷厳な事実である死をどう受け止めるかということは、わたしたちがどう生きるかということと深くつながっていることなのです。人間はどうせ死んでしまうのだから、自分の好き放題やって、いつ来るかわからない死を迎えようとする。生きている間、せいぜい面白おかしく過ごして生きたい。そのように生きればいいのではないかと死んだらもう全て終わりなのだと、そのように考える人が少なからずいるのではないでしょうか。わたしたちは死を何とかごまかして生きようとしてしまいます。死と向き合うことを避けようとする。確かに死というのは、わたしたちにとっては本当に厳しいことです。それはわたしたちにとっては、生の感情としては、不安感にも襲われたりするわけです。しかしそういうわたしたちに対してパウロは、キリストの復活ということが、どれだけわたしたちにとっての希望になるか。ただ一時の慰めではなくて、それが地上を歩むわたしたちにとって、どんなに大きな意味があるのか、希望なのかということを、わたしたちにこの今日のところで教えてくれるのです。50節に「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」とあります。「肉と血」というのは、わたしたち人間のことです。「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」とありますが、「朽ちるもの」というのは、わたしたちのことを人間のことを指しています。「朽ちないもの」それは神の国、神のご支配ということです。「朽ちるもの」であるわたしたち人間は、いつか必ずこの肉体が滅びるわけですが、その滅びるわたしたちは、神の国を受け継ぐことはできない。そのままでは永遠の存在であられる神の国を受け継ぐことはできないということなのです。しかし、52節にありますが、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」とあります。

 わたしたちは、葬儀などがあると、改めてそのときに人の死というものを突きつけられます。わたしたちの近親の者、知り合い、親しい者が亡くなったときに、わたしたちはなるべく考えないようにしている死というものが、わたしたちの目の前に、突き付けられるという経験をいたします。本当に人は死ぬんだ、とそういう厳しい現実をわたしたちは否応なく突きつけられるわけです。そのときに、自分の死ということも当然考える。死ぬということを考えるということは、わたしたちが生きるということを、生きるということはどういうことかということを考えさせられることでもあります。パウロはここで「ラッパが鳴るとともに」と言っています。「ラッパが鳴るとき」それは終わりの日、終末と言いますが、いま天の右にいらっしゃるイエス・キリストがこの世に来られる。この地上の形あるものは全て滅び、新しい天と新しい地がつくられる。その日に、イエス・キリストがこの世に来られる。そのときに、先に死んだ人たちが復活の命を与えられる。そして、生きている人たち、わたしたちがもしそのときに生きているとすれば、わたしたちも変えられる。どのように変えられるのかというと、53節にありますが、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」この着物を着るという例えで、パウロが言っているのは、わたしたち生きている者がそのときに生きていれば、わたしたちもまた、朽ちないものを着ることになる。死なない命として、わたしたちは変えられるということなのです。そのときに神様が死に勝利される。そのことが、まさにここで宣言されているのです。わたしたちはイエス・キリストを信じ、神様を信じて生きる者です。わたしたちが神様を信じイエス・キリストを信じる限り、わたしたちにはその日によみがえりの命が与えられる。死なない命が与えられるということが、このようにして約束されているのです。わたしたちはそれぞれの地上の生涯で、どのようにこれまで生きてきたのか、そしてどのようにしてこれから生きていくのか、そして今何を思い、何に悩み、何に不安を覚えて生きていくのか。これまでいろいろな失敗もしてきたことですし、これからもそういう失敗を犯してきたり、多くの人を傷つけてしまう。そのようなことも起きてしまう。そういう弱いわたしたちですが、わたしたちには必ずや終わりの日に復活の命が与えられる。そのとき死の力が、まさに滅ぼされるということ。そのことをわたしたちがしっかりと心に留めて信じるときに、わたしたちが今どのような不安の中にあろうとも、自分をどんなに嫌いであったとしても、わたしたちには復活の命が与えられるのです。神様を信じるならば、先に召された人たち、死んだ人たちとともにわたしたちもともに復活の命をいただいて、永遠の命をいただいて生きるということが約束されているのです。その終わりの日がいつ来るかはわかりませんが、しかしそれは必ず来ます。その終わりの日の大いなる希望を、わたしたちは信じるときに、今わたしたちがどのような状況の中にあったとしても、今をそしてこれからを絶望することなく、生きていくことができるのです。それがわたしたちにとっての揺るぎない希望なのです。

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