2025.2.23 降誕節第10主日礼拝
創世記 45章3~11節
コリントの信徒への手紙一 15章35~38節、42~50節
ルカによる福音書 6章27~36節
                          

「神の子となるため」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

   本日の聖書箇所の最初である27節に「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」とあります。イエス・キリストは「敵を愛しなさい」とおっしゃいます。この場合の「敵」とはどういう人を言うのでしょうか。わたしたちにとって敵とはどういう人なのでしょうか。「あなたがたを憎む者」、そして28節には「悪口を言う者」「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とあります。具体的にはそういう、わたしたちを憎む者、悪口を言う者、わたしたちを侮辱する者。そういう人たちが、ここでいう敵ということを表していると言っていいと思います。

 一般的には自分を愛してくれる人を、わたしたちは愛します。好意を示す。自分に敵対的な行動をとる人たちに対しては、わたしたちは愛するということがなかなかできない。憎まれたら憎み返すというようなこともしてしまうのです。それがこの社会では普通のことです。ここだけを読むと、わたしたちも含めて、本当にこれは厳しい言葉だな、と感じさせられます。しかし、ただイエス様は、この「敵を愛しなさい」以下のご命令をただ、単なる戒めとしておっしゃっているのではありません。35節以下に「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とあります。また22節に「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」とあります。あなたがたがそういう目に遭うということが、幸いなのだとおっしゃる。そういう目に遭ったときに、ののしられたらののしり返すのではなくて、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたを憎む者に親切にしなさい。敵を愛しなさい。そうすることによって、わたしたちにとって大きな報いが与えられる。たくさんの報いが与えられる。その報いとはどういうことなのでしょうか。35節の後半に、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」とあります。「いと高き方」というのは、天の父なる神様のことです。わたしたちが敵を愛することができれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となるということなのです。「報い」とは、神様の子となる、子としていただけるということです。聖書の他のところで、「キリストに似た者とされる」という言葉があります。わたしたちが敵を愛することができるならば、わたしたちもキリストに似た者とされるのです。

 しかし、そうは言っても、わたしたちを憎む者に親切にしたり、悪口を言う者に祝福を祈ったり、わたしたちを侮辱する者のために祈るということは、わたしたちは自分の決意だけではとても難しいと言わざるを得ません。それでは、そういうわたしたちに向かって、とてもわたしたちができないようなことを、主イエスはお命じになっているのでしょうか。あえて主イエスがこのようにおっしゃった意味というのは、どういうことなのでしょうか。

わたしたちは、神様以外のものに心を寄せて、お金やいろいろな財産とか名誉とか、そういうものを拝んでしまう弱い者たちです。神様を愛していると言いながら、わたしたちは時折、神様の敵となってしまっていることがあるのです。神様に敵対している、そういうときがわたしたちにもある。神様は、神様を愛するどころか、敵対するわたしたちのために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。そのことによって、わたしたちが赦されるのです。ルカによる福音書23章に、イエス・キリストが十字架にかけられて、いまわの際に、「どうか彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないからです。」と神様にとりなしの祈りを献げられるというところがあります。ルカによる福音書23章の34節ですが、それは「彼ら」というのはイエス・キリストを十字架につけた人たちのために、イエス・キリストがいまわの際に、苦しみのただ中にいらっしゃるときに、神様に赦しを祈る、とりなしの祈りを祈られたのです。ある人が申しておりましたが、その「彼らをお赦しください」というその「彼ら」の中に、わたしたちも含まれていると。その祈りをわたしたちもまた、イエス・キリストとともに、祈ることができるようにイエス・キリストはわたしたちを招いてくださるのです。その招きに応えて、わたしたちが十字架の主の御跡に従っていこうとするときに、わたしたちは自分の力だけでは到底できないと思えるような「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬おも向けなさい。」という。そういうことができる者に変えられていくのです。

 わたしたちは自分の敵と思える人たちを愛するなどということは、信仰抜きにできることではありません。道徳心からいくら頑張っても、こんなことはできることではない。わたしたちが神様の敵であるような、そのようなわたしたちをも赦してくださるために、十字架にかかってくださって、「(わたしたちをも含む)彼らをお赦しください」という、その祈りに合わせてわたしたちも祈り、そういう主の招きに応えようとして歩むときに、わたしたちは敵をも愛する者に変えられていくのです。

 ですから、この本日皆さんと読んでいるところは、イエス・キリストがわたしたちに与えられた道徳的な戒め、ご命令ではないのです。わたしたちにはとてもできないと思われるようなことであっても、そういうことができる者にわたしたちは変えられていくのです。そのことにひたすら信頼して、希望を持って歩んでまいりましょう。

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