2025.2.16 降誕節第9主日礼拝
エレミヤ書 17章5~10節
コリントの信徒への手紙一 15章12~20節
ルカによる福音書 6章17~26節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
今日皆さんと聴いてまいりますところは、イエス・キリストが山から下りたところで説教をなさった箇所です。「貧しい人々は幸いである。」と20節にあります。これはかつて話題になった「清貧のすすめ」ではありません。なまじおカネを持っていると、おカネをどうやって増やそうかと考えたりして煩わされてしまうので、むしろ貧しい方がいいということですが、主イエスはそういうことをおっしゃっているのではありません。 それでは、なぜ貧しい人々が幸いなのでしょうか。一般的には普通は、富んでいる豊かな人が幸いだと言われるのですが、貧しい人々が幸いであるというのは、なんだか不思議な感じがいたします。21節には、「今飢えている人々は、幸いだ。」とさらに「今泣いている人々は、幸いである。」とあります。22節には、「人々に憎まれるとき」云々ということで、その人たちも幸いであると主イエスはおっしゃるのです。「貧しい人々」とありますが、この「貧しい」という言葉なのですがこれは経済的に貧しいという意味だけではないのです。この「貧しい人々が、幸いである。」というのは、経済的に貧しいという人たちも含んでいるのですが、この「貧しい」という意味が、もっと広い意味なのです。この「貧しい」という意味に、元々経済的な貧しさだけではない、おカネだけではなくて、自分の能力とか、様々な財産もそうですけれども、そういうものを持っていない。能力もそうですが、そういう自分で自分を助けるようなものを持っていないということなのです。「神の国はあなたがたのものである」とあります。ルカによる福音書の、18章15節から17節には「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」とあります。「神の国は乳飲み子のような者たちのものである」と主イエスはおっしゃっているのです。子供というのはどういう存在でしょうか。子供は、ましてや乳飲み子はとても弱い存在です。親や大人の助けがなければ、生きていくことはできない。食べることやその他全てのことについて、自分の力を用いて生きていくことはできないのです。そういう弱い存在なのです。聖書ではこの子供の他にも病人や徴税人と言われる人たちにとっても、「神の国はその人たちのものである」と他のところでも記されています。社会的弱者、社会から全然評価されていない人たち、社会的に軽蔑されている人たち、経済的に貧しい人たち。そういう人たちを「貧しい」という言葉で表現しています。神の国が、その人たちのものなのだと、主イエスはおっしゃっている。そういう人たちは、社会で一人前とみなされていない、差別されている人、あるいは社会的弱者と呼ばれている人たちです。自分で自分を救うことができない人たちです。その人たちは、誰よりも救いを必要としています。外から救ってくれること、外からの救いを求めている。いろいろな意味で救いがなければ、生きていくことはできない。経済的なことだけではなく、社会的に差別されているような人たち、軽蔑されているような人たち、社会からつまはじきにされているような人たちも、そこから自分の力では脱出することはできないのです。誰かからの救いがなければ、生きていくことはできない人たちです。その人たちを総称して「貧しい人々」とイエス・キリストはおっしゃっているのです。そういう人たちこそ、神の救いを求めて生きていくことができる。神の国はそのような人たちのものであると言われる。子どもがただ両手を広げて、親の愛を一身に受けるように、神の救いを求めていくことができるのです。 おカネがあったらなとは誰しも考えることです。しかし、そういう現実的なお金やその他いろいろな着るものも食べるものも、必ず神様が備えていてくださいます。マタイによる福音書の6章に、着るもの、食べるもの思い煩うな、空の鳥は刈り入れもせず倉に納めることもないと。天の父なる神様は、そのような鳥も養っていってくださるではないかと。何を着ようか、何を食べようかと思い煩うのではなくて、まず神の国と神の義を求めなさいとおっしゃる。そうすれば、それらに加えて、そういうものも与えられるということを約束してくださっているのです。 わたしたちが本当に求めなければならないことは、「神の国と神の義である。」これは簡単に言えば、「神の救い」ということです。わたしたちがおカネそのものに執着するのではなくて、まずは「神の国と神の義」「神の救い」を求める者とされたいとわたしたちは願いたいのです。主の祈りの中で、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」とわたしたちは祈ります。その祈りに応えてくださるお方に向かって祈りを献げます。神様は、わたしたちの必要を必ずわかっていてくださいます。何らかの形で、わたしたちにそのような恵みを与えてくださる。「求めなさい。そうすれば与えられる。」とイエス・キリストは他のところでもおっしゃっています。そのことも、「まず神の国と神の義を求めなさい」ということと通じるのです。わたしたちは、乳飲み子のように、何も持たない者として、神様の救いを求める者とされたい。そうしていただくときに、それこそが幸いなのだと主イエスはおっしゃるのです。 そしてまた、わたしたちがこの世で、本当に貧しい状況の中にある人たちのために平安を祈り、わたしたちができる限りのことをしていくことも求められています。神の国のために、わたしたちは働くことも神様に求められているのです。そのことをわたしたちは深く心に留めて、本当の幸いとは何かということを、主イエス・キリストの言葉に聴いて、考えて希望を持って歩んでまいりたいと思うのです。 閉じる