2025.2.9 降誕節第8主日礼拝
イザヤ書 6章1~8節
コリントの信徒への手紙一 15章1~11節
ルカによる福音書 5章1~11節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
今日の聖書のところで、「イエス・キリストがそのゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」とあります。ゲネサレト湖といいますのは、イスラエルのガリラヤ湖のことです。 あまりにも多くの人たちが押し寄せてきたので、イエス・キリストが、舟に乗ってちょっと沖の方に、岸から少し離れたところに漕ぎ出してくれと漁師に頼んだということなのですが、そこに腰を下ろして、神の教えを話されました。これは説教ということです。イエス・キリストが群衆に向かって説教をなさる。説教が終わってから、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とシモンに言われたとあります。しかし、このシモン・ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と答えました。 イエス・キリストがおっしゃったことに対して、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とお答えしてやってみたところ、驚いたことに、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」のです。漁師として素人であられるイエス・キリストの、漁をしてみなさい、と言われたお言葉にペトロは従って見たところ、大漁でした。これは本当に奇跡でした。、シモンは大変に驚いたのです。これを見たシモン・ペトロは、8節にありますが、「イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った」のです。これはどういうことなのでしょうか。このような本当に大きな奇跡を目の当たりにして、シモンは「このお方こそ神であられる。この目の前にいらっしゃる方こそ神であられる」と、彼は思い知らされたのです。自分は罪深い者であるから、神様の前に到底立つことができる者ではないと、彼は気づかされたのです。 わたしたちもこのペトロのように、神様の前に立たされたときに本当に恥ずかしくなって、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言うしかないのです。そう叫ぶしかない者たちなのです。それではわたしたちが、罪深い者だと自分が認識するならば、いつもビクビクしていなければならないのでしょうか。10節にありますが、「イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」」とおっしゃいます。罪深いわたしたちが神様の御前に立つことができない。自分はこれまでしでかしてきた様々なことに向き合うときに、神様の前に顔向けができない。わたしたちは、良心の刃で自分自身を切り刻もうとするようなことがある。そういう苦しさの中に自分を追い込んでしまう。しかし、イエス・キリストは、「恐れることはない」とおっしゃるのです。罪を犯してしまうわたしたちが、神様の御前で本当に裁きを恐れる。そして、自分自身を裁いてしまう。そういう苦しみから解放してくださる言葉が「恐れることはない」という言葉なのです。これは「あなたの罪は赦された」ということでもあります。イエス・キリストは、わたしたちの救いのためにこの世に来られて、十字架というわたしたちには到底耐えられない苦しみを味わわれて死なれ、そして復活なさいました。それは、わたしたちが犯してきた、そして今も犯しつづけている罪、その罪が赦されるためということなのです。 「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と主イエスはおっしゃいます。「人間をとる漁師になる」とありますが、直訳しますと、「今から後あなたは人間を生かす者になる」という意味があります。漁師は魚をとるのが仕事ですから、とった魚を市場などに出して、食べるために売るということをいたします。とったらもうそれで終わりなわけです。しかしここで言われているのは、より正確に言うならば、取ることだけではなくて、むしろとってから生かすという意味があるのです。人間をとる漁師にする。キリストの弟子として、神の教えを宣べ伝え、救いの道を一人でも多くの人々に歩ませるための伝道者となるということがここで語られています。またわたしたちが、キリストの弟子として、神の教えを生きることによって、地の塩、世の光として歩むことができる。この世にいる人を主の弟子として、生き生きと生きることができるように導く、そのような務めを果たせる者にしてくださるというイエス・キリストのお約束ということなのです。 そのように主がおっしゃったあと「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。自分たちがそれまで依り頼んでいた、自分たちはこのことによって生きることができると考えていた様々なものを、お金や財産、自分の能力、それらすべてを捨てて、イエスに従う。「あなたこそ救い主であられる」と信仰を告白して生きる。主の御跡に従って生きる者とされるということなのです。 今日のところの最初のところで、3節に、「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」とあります。ペトロの持ち舟に乗って、少し漕ぎ出して、群衆に向かって神の教えを述べられる。説教をなさる。その舟に、イエス・キリストお一人だけが乗っておられたのではありません。そこにペトロがいたはずです。そして、他の弟子たちも乗っていたのではないでしょうか。イエス・キリストは、舟の上から群衆に向かって説教をなさる。一方、ペトロを初め弟子たちもイエス・キリストの足もとで神の教えを聴くことができたのです。神の言葉を、彼らはすぐそばで聴くことができたのです。彼らは神の言葉を聴き、イエス・キリストの神であるお姿を見ることができました。大きな奇跡を目の当たりにすることができたのです。そのことによって、すべてを捨てて、主イエスに従うことができたのです。わたしたちもまた弟子たちと同じようにそのような者にしていただけるのです。 閉じる