2025.1.26 降誕節第6主日礼拝
ネヘミヤ記 8章1~10節
コリントの信徒への手紙一 12章27~31a節
ヨハネによる福音書 4章14~21節
                          

「キリストの体」

 本日は、「コリントの信徒への手紙一」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所において、世間の他の団体やグループにおける交わりと、教会における兄弟姉妹の交わりとの根本的な違いが示されています。世間における交わりは、その親密さにおいていろいろなレベルがあります。例えば仕事の上だけの付き合いのような希薄なレベルの交わりであれば、 気が合うとか合わないとかということを離れて誰とでも交わりを持つことができるでしょう。しかしより親密な交わりを結ぼうとすると、そこにはおのずから、親しく付き合える人とそうでない人が分かれてきます。わたしたちは誰とでも同じように親密に付き合えるわけではありません。ましてや、「一つの体に共に連なる部分」というほどの緊密な、一体性のある交わりは、よほど親しい、また気の合う者同士の間にしか成り立ち得ないものであり、それが世間における交わりの常識です。ところが、ここに語られている教会における交わりは、その常識に全く反しています。キリストの体の部分としての交わりは、気の合った、親しい友だち同士の間にのみ成り立つのではなくて、洗礼を受けて教会に加えられた者たち全員がキリストの体の部分となり、そこに、「一つの体に共に連なる部分」としての交わりが生まれるのです。そこには様々な違った人々が集められています。そのように全く異なった、本来共にあることができないような者たち(2章13節)が、洗礼を受けたことのみによって、一つの体となり、その部分としての交わりに入る、それが教会なのです。ですから、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」というのは実に驚くべきことなのです。

 ここで言われる「キリストの」というのは、「キリスト的な」とか「キリストの精神を受け継ぐ」という程度の、添え物の言葉などではありません。わたしたちは文字通りキリストの体であり、イエス・キリストこそこの体の主人、所有者なのです。あるいは、キリストはこの体の頭(かしら)であり、そこに手や足など様々な部分が結び合わされてこの体が出来ているのです。手や足はこの頭(かしら=あたま)の指示に従って動くことによって初めて、体の部分としての機能を果たすことができます。キリストの体の部分になるということは、この頭(かしら)なるキリストと結び合わされ、キリストに聴き従う者となることです。そのことによってキリストの体が組み合わされ、造り上げられていくのです。そこにこそ、キリストの体である教会におけるわたしたちの交わりの絆があります。

 28節以下には、教会の中にいろいろな異なった務め、働きが立てられていることが語られています。様々な違った務め、働きがあって、それらが相まって教会は一つの共同体として歩んでいくのです。一つの体の様々な部分ということが、ここでは教会における様々な務め、働きに置き換えられています。どのような共同体にも、いろいろな役割があって、それぞれが自分の役割をしっかり果していくことによって維持されていくと言えるでしょう。しかしここに語られているのは、そのような世間の常識ではありません。ここにも、教会がキリストの体として造り上げられていくために最も大事なことは何か、が語られているのです。その一番大事なこととは、頭なるキリストに真実に聴き従うことです。ここに並べられている教会における務め、働きも、その「キリストに聴き従う」ことがきちんとなされるために整えられているのです。

 パウロがここで様々な務めを並べている、その順序にそれが現れています。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」とあります。第一の「使徒」とは、基本的には主イエスの弟子であった人々で、主イエスの復活の直接の証人たちです。パウロは、自分も、復活された主イエスとの出会いによって使徒の一人とされている、と述べています。教会の教え、その信仰は、この使徒たちが伝えたものです。教会が頭なるキリストに聴き従っていくためには、使徒たちの教えをしっかりと受け継ぎ、守っていかなければなりません。そうでないと、「キリストに聴き従う」と言いながら結局は自分の思いを中心とするようなことが起るのです。第二の「預言者」とは、未来のことを言い当てる人のことではなくて、神様のみ言葉を人々に語る人、つまり今日で言えばみ言葉を語る、説教をするという務めに立てられた人です。これも、教会が神のみ言葉に聴き従うために立てられている務めです。第三の「教師」もそれと似て、頭なるキリストに聴き従う信仰を教え、それによる生活を指導していく人です。パウロはこの三つの務めを、神様が教会の中にお立てになった第一、第二、第三の務めとしています。これらはいずれも、教会が、頭なるキリストに聴き従っていくために立てられている務めなのです。そしてこの三つが、使徒、預言者、教師という職名で呼ばれているのに対して、次からは番号なしに、また言い方も「~を行う者」あるいは「~の賜物を持つ者」というふうになっていくのです。そしてそれらの賜物は、み言葉に聴き、頭なるキリストに聴き従うという一番大切なことによってこそ生きるし、意味あるものとなるのです。聖霊の第一の中心的な賜物は「イエスは主である」という信仰の告白である、ということが12章の始めのところに語られています。教会における様々な務めや働きも、このことを中心として、このことへ向かって整えられなければならないのです。教会がキリストの体であり、わたしたちがその部分であるという恵みが、わたしたちの現実の交わりに具体化し、実を結ぶためには、何よりもまず、「イエスは主である」という信仰告白を共有し、そして主であるイエス・キリストのみ言葉を聴き、それに聴き従っていくことを中心とする交わりを確立していかなければならないのです。「キリストの体」である教会はそのようにして建て上げられていきます。そしてその中でこそ、わたしたちそれぞれに与えられている様々な賜物と、それによるわたしたちの働き、奉仕は実り豊かなものとなっていくのです。

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