2025.1.19 降誕節第5主日礼拝
イザヤ書 62章1~5節
コリントの信徒への手紙一 12章1~11節
ヨハネによる福音書 2章1~11節
                          

「聖霊の賜物」

 本日は、新約聖書「コリントの信徒への手紙一」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 「コリントの信徒への手紙一」の12章は、霊的な賜物、つまり、聖霊なる神が私たちに与えてくださるもの、について語っています。本日のところでは、その聖霊の賜物が教会の中において人それぞれに違った仕方で与えられている、ということが語られていきます。8節以下に並べられているような様々な賜物が、コリント教会の人々に聖霊によって与えられていたのです。

 この教会はまことに賜物の豊かな人々の集まる活発な教会だったのです。ところがそのことのゆえにかえってある問題が起ってきていました。豊かな賜物が与えられているのはよいのですが、各自が、自分の賜物を発揮しようとし、またそれを人に認めさせようとする、そして自分の賜物と人の賜物とを比較して、どちらが優れているとか劣っているとか、誇ったり、嫉んだりするようになる、そういうことによって、対立、争いが起ってきたのです。この手紙を書いたのはパウロですが、彼はそういうコリント教会の現実を見つめながらこの手紙を書いています。そこにおいてパウロが語っていることは、まず第一には、「イエスは主である」という信仰の告白と結びつくものだけが聖霊の賜物だ、ということです。何かの能力があったり、何か人に出来ないことが出来たらそれが全て聖霊の賜物なのではない、教会における賜物は、「イエスは主である」という信仰告白と常に結び合っていなければならないのです。その聖霊の賜物の中にも様々な違いがある、あなたがたそれぞれに、様々に違う賜物が与えられている、しかし、それを与えているのはただ一人の同じ聖霊なのだ、ということが本日の聖書箇所で言われているのです。

 しかし、様々な賜物が唯一の聖霊によって与えられている、ということをわきまえるだけでは、コリント教会で起っている問題の本当の解決にはなりません。それぞれが自分に与えられている賜物を発揮し、それを生かそうとするところにぶつかり合いが起っているのです。パウロはそのことを見つめつつ、もっと根本的なことを語ろうとしているのです。そのことが4節5節6節に示されています。この三つの節は、同じ形の文章が三度繰り返され、たたみかけるように語られています。語られていることは基本的に先ほど申しましたのと同じ、様々な賜物が同じ聖霊によって与えられている、ということです。けれどもこの三つの節においてそのことが、違った言葉に置き換えられながら繰り返されていくのです。4節は「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」となっていますが、5節ではそれが「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」となり、6節では「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」となっています。この言葉の変化はどうでもよいことではありません。基本的には同じことが繰り返されながら、内容が少しずつ変化しているのです。まず4節では「様々な賜物が同じ霊によって与えられている」という、ここで語られていることの基本が確認されています。次の5節では、「賜物」が「務め」に、「霊」が「主」に変えられています。「務め」と訳されている言葉は、原語では「ディアコニア」、その意味は「奉仕、仕えること」です。「賜物」が「奉仕」へと言い替えられているのです。それはすなわち、聖霊の賜物は奉仕のために与えられているということです。その奉仕の務めが、主によって与えられている。主とはイエス・キリストです。一人の主イエス・キリストによって、様々な奉仕の務めが一人一人に与えられているのです。聖霊によって様々な賜物が各自に与えられている、というのを言い替えるとこうなるのです。この言い替えは非常に大事なことを教えています。つまり、私たちが聖霊によっていろいろな賜物を与えられているとは、主イエス・キリストに奉仕する僕としての務めを与えられているということなのです。聖霊の賜物は、私たちが自分の満足を得たり、自分の目的を達成するために用いるように与えられているのではなくて、主であるイエス・キリストに仕える務めを果たすために与えられているのです。賜物と務めは一体です。自分の賜物を見つめるとは、主イエスから自分に与えられている奉仕の務めを見つめる、ということであるし、そうでなければならないのです。

 この4節5節6節に語られていることを別の角度から言い換えているのが7節です。7節には「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」とあります。一人一人に聖霊の働きが現れ、いろいろな賜物が与えられているのは、一人一人がそれを用いて自分の人生を充実させていくためなのではなくて、「全体の益」となるためなのです。全体とは、教会の全体、共に主イエス・キリストのもとに集められている兄弟姉妹の全体です。その全体の益となるために、一人一人に聖霊の賜物が与えられている。つまり聖霊の賜物は、個人のために、個人のものとして与えられているのではないのです。コリント教会において、賜物が豊かに与えられていたのに、それがかえって混乱や対立の原因になってしまったのは、この点において間違ってしまっていたからです。聖霊の賜物を自分個人のものとして受け止め、それを発揮することによって自分を高め、自分の人生を充実させようとしていくところに、人に対して誇ったり、人の賜物を嫉んだりすることが生じるのです。この、聖霊の賜物を個人のものとして受け止めてしまうという間違いを、私たちもよく犯すのではないでしょうか。自分に与えられている賜物を、自分のものとして受け止めてしまい、それを発揮することで自分を生かし、充実させようとする、またその賜物を人に認めさせ、尊重させようとする、それぞれがそのようにしていけば、当然その思いがぶつかり合い、対立が起るのです。しかし聖霊の賜物は、キリストの体である教会全体の益のために与えられているのです。そのことをしっかりと心に刻んで歩んでまいりましょう。

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