2025.1.5 降誕節第3主日礼拝
エレミヤ書 31章7~14節
エフェソの信徒への手紙 1章3~14節
ヨハネによる福音書 1章14~18節
本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。
1章14節に「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。イエス・キリストがこの地上を歩まれた、そのご生涯というのは、神様の教えを宣べ伝えられ、数々の奇跡を起こされたご生涯でした。悪霊に取り憑かれている人から悪霊を追い出し、長い間病に苦しんでいる人をお癒やしになりました。その奇跡を行われるイエス・キリストが神様の栄光を示しています。しかし、ある人が申しました。より本質的な意味で、神様の栄光がどこに最も力強く現されたのかと言うと、それはイエス・キリストの十字架において現されていると。イエス・キリストが十字架にかけられて、わたしたちの背負うことのできないような大きな苦しみを背負われて死なれる。しかし、それは栄光どころか、人間の目から見れば本当に惨めな敗北としか言いようのないようなお姿なのですが、そこにこそ神様の栄光が現されているというのはどういうことなのでしょうか。それは、主イエスの十字架とは、わたしたちの深い罪が赦されるためだったということです。人類が犯してきた様々な過ち、罪、そしてわたしたちが今生きている間に犯してしまう罪、そしてこれから犯してしまうであろう罪を赦し、罪深いわたしたちを受け入れるために、主イエスは十字架にかかってくださったのです。それは神が愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられるほどに、わたしたちを愛していてくださっているからなのです。そのイエス・キリストの十字架によって、わたしたちの罪が赦される。わたしたちは罪深い存在ですが、主はそのようなわたしたちをそのままで受け入れ、赦し愛してくださる。そのことが、十字架において現されています。それこそがわたしたちの救いであり、まさに神様の栄光ということなのです。わたしたち人間の目から見れば、とても栄光とは思えないような、惨めな敗北としか思えないようなそのお姿は、神様の目から見れば、輝かしい栄光として、世界の歴史において燦然と光輝いているのです。 ところで、天地万物を創造された全能の神が、人の姿をとってこの世に来られるということは、当時のユダヤ教を信じている人たちは特にそうですが、到底受け入れられないことでした。神様は形もなくて見えない、人が見たら死ぬと言われているお方です。そのお方が人となってこの世に来られるなどということは到底受け入れられるものではないという人が、当時たくさんいたわけです。しかしヨハネは、「神が人となってこの地上に来られた。それは、神の独り子であられる神なのだ」ということを、この「ヨハネによる福音書」の序文とも言える箇所でしっかりと記すのです。 なぜイエス・キリストが、肉の形をとってこの世に来られたのか、先ほども申しましたように、それはわたしたちの罪を償ってくださるため、罪が赦されるためです。わたしたちの深い罪が赦されるためには、それ相応の大きな刑罰が下されなければなりません。わたしたちの代わりに、その大きな苦しみを、刑罰の苦しみを受けられたのが、イエス・キリストなのです。「イエス・キリストは真の人であって、真の神である」と、日本キリスト教会の信仰告白に記されています。肉の姿をとってこの世に来られたお方は、わたしたちと同じように肉体をお持ちでした。その刑罰の苦しみはわたしたちには到底耐えられないものでした。その苦しみを神様の独り子であられる神が引き受けてくださったのです。 18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあります。「父のふところにいる独り子である神」とは、父なる神と子なる神の深い愛の関係を示しています。わたしたちにはそうしていただく資格が全くないにもかかわらず、わたしたちの罪を赦してくださるために、わたしたちを受け入れてくださるために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられるという大きな犠牲を神様は払ってくださったのです。 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」イエス・キリストにおいて目に見えない神が示されています。神様は目に見えませんが、イエス・キリストのお姿を見れば、なさったことを見れば、神様を見ることができます。もちろんイエス・キリストと共に生きた弟子たちはイエス・キリストを直に見ることはできたはずです。しかし、わたしたちは今、弟子たちと同じ時代に生きていませんが、そのために見ることはできないと言ってしまっていいのでしょうか。 それでは、わたしたちはどこで、イエス・キリストのお姿を見ることができるのでしょうか。それは、わたしたちがいま献げております教会の礼拝において、わたしたちはイエス・キリストに相まみえることができる、お姿を見ることができるのです。それは聖霊の力が働くことによって、わたしたちにそのお姿を現してくださるのです。 わたしたちがイエス・キリストにお目にかかるためにわたしたちの教会があります。「教会はキリストの体である」とパウロは述べています。しかし、建物に人が集まれば、それで自動的に教会ができてキリストを見ることができるのではありません。わたしたちに必要なのは、イエスこそ救い主であられる、キリストであられるということを、この世に証しするということが必要です。そうでなければ、教会というのは「キリストの体」とは呼ばれることはなく、この世にある同好会やサークルなどと同じものになってしまいます。わたしたちに求められているのは、「このお方こそ、救い主キリストである」と信じ、そのことをこの世に証しすることなのです。それで、聖霊の力を注いでいただいて、わたしたちは「キリストの体なる教会」の枝として、神様の独り子であられる神、イエス・キリストに相まみえることができるようになるのです。そのことを確信して歩めるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる