2024.12.29 降誕節第2主日礼拝
サムエル記上 1章21~28節
コロサイの信徒への手紙 3章12~17節
ルカによる福音書 2章39~52節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書箇所の46節で、十二歳の少年イエスは神殿で「学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したり」しておられたとあります。そして「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」のです。この学者たちというのは、律法の学者たちのことです。神様の教えを人々に語る学者たちです。その人々の中で主イエスは、律法について神様のみ言葉について話を聞き、質問していたのです。このことを、主イエスは十二歳にして、律法学者たちと論争し彼らをやり込め、皆が驚くような教えを語っておられた、と理解する必要はありませんし、またそれは正しくありません。ルカが語っているのは、あくまでも主イエスが話を聞いたり質問したりしていた、ということです。これは、生徒が先生に対してすることです。つまり主イエスは、学者たちから熱心に律法を、神様のみ言葉を学んでいたのです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」というのも、あくまでも生徒としてのイエスの理解力や、的を得た的確な質問をする賢さに皆が驚いたということです。つまり、この神殿での主イエスのお姿は、律法の学者たちをやりこめ、その権威を否定している姿ではなくて、先輩の学者たちから熱心に律法、神様の教えを聴き、学んでいるお姿なのです。イエス・キリストは、先輩の教師たちから神様のみ言葉を熱心に聴き、学びつつ、育ったのです。主イエスは神様の独り子、真の神であられるお方です。その真の神が、わたしたちと同じ人間になってくださったのです。少年イエスは、人間の教師たちからみ言葉を聴き、学びつつ育つ者となられました。神の子、真の神なのだから、人から教えられなくても、神の言葉は最初からよく知っている、わかっているとはおっしゃらなかったのです。ここにわたしたちと同じ人間になってくださった主イエスのへりくだり、謙遜が示されています。それと同時にここには、わたしたちが神様のみ言葉、教え、つまり信仰の事柄に対して取るべき姿勢が示されていると言えるでしょう。わたしたちは神様のみ言葉を聴いて学ばなければならないのです。信仰の事柄は、学ばなくてもわかるというものではありません。もちろん、勉強して理解することと信じることとは違いますので、理解力がなければ信仰が得られないというものではありません。しかし、信仰が本当に神様への信仰になるためには、み言葉を聴き、学んでいくという基本的な姿勢が必要なのです。学ばなくても、直感でわかると思ったり、自分の元々知っていることの中にのみとどまっていたのでは、本当の信仰を得ることはできないのです。そしてもう一つ大事なことは、わたしたちが神様のみ言葉を聴き、学ぶことができるのは、人間の教師を通してです。神様から直接学ぶとか、書物を通してのみ学ぶというのは、本当の学びにはならないのです。人間の教師つまり神のみ言葉を学び、それによって生きてきた先輩たちを通してこそ、生きた神の言葉を学ぶことができます。しかし、人間の教師たちには欠けがあります。罪もありますし、間違いもあるでしょう。ですから、主イエスはのちに、このエルサレムの律法の教師たちと厳しく対立するようになるのですが、そこに至る前に、まず彼らからしっかり聴き、学ばれたのです。これによって主イエスは、神様のみ言葉を学ぶことにおける模範を、わたしたちに示してくださっているのです。 ところで、わたしたちは、ルカによる福音書2章全体を読むと気づかされることがあります。それは、主イエスの両親が、特に母マリアが主イエスの誕生と成長の一連の出来事によって、幾度も深く驚かされ、自分が産んだこの子は一体どのような人間となり、何をする者となるのだろうかという問いを、心の内に深く抱いて、歩み続けたことです。51節に「母はこれらのことを全て心に納めていた。」とありますが、19節にも、乳飲み子主イエスのもとに、羊飼いたちが訪ねてきたことを受けて、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」とあります。「心に納めて、思い巡らしている」というのは、そのことの意味がわかったという姿ではありません。むしろわからないのです。主イエスの誕生と成長における様々な出来事は、母マリアにとって驚きの連続であり、本日のところでもそうであるように、意味がわからないことの連続だったのです。マリアはその数々の驚きを、わからないことを心に納めて、思いめぐらしていったのです。そのことはこの後、主イエスが彼らの元を離れて、伝道を始めてからも続きました。主イエスの御業やみ言葉は、マリアにとって驚きの連続であり、わからないことばかりだったのです。それらを心に納めて、思い巡らしていく中で、彼女は35節でシメオンが予告しましたように、「剣で心を刺し貫かれる」ような体験もしたのです。つまり息子イエスが、十字架につけられて殺されることをも体験したのです。しかしそれら全てを心に納め、思い巡らしていくことの中で、主イエスこそ神の独り子であり、真の神が人間となってくださった方であり、そのお方がわたしたちの罪の全てを背負って、十字架にかかって死んでくださったのだと信じる信仰が与えられていったのです。わたしたちの信仰もそのようにして与えられていきます。主イエス・キリストに驚き、その御業やみ言葉に戸惑い、わからないと思うことが信仰への最初の一歩です。その驚きを疑問を問いを大切に心に納めて歩み続けることが、大事なのです。そしてその歩みの中で、主イエスが模範を示してくださったように、自分の知識や感覚を絶対化せずに、神様のみ言葉を信仰の先輩である教師たちから聴き、学んでいくのです。そのことによって、わたしたちも神の独り子であり、真の救い主であられるイエス・キリストとの出会いを与えられ、主イエスの父である神様を、自分の本当の父として仰ぐ者となり、それによって本当に自立した自由な人間となり、そして主イエスがなさったように、両親にまた隣人に仕えていく者となることができるのです。 閉じる