2024.12.15 待降節第3主日礼拝《アドヴェントⅢ》
ゼファニア書 3章14~20節
フィリピの信徒への手紙 4章2~7節
ルカによる福音書 3章7~20節
                          

「わたしよりも優れた方」

本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と3節にあります。また7節に「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」とありますが、ヨハネはその人々に向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と語りました。これは大変厳しい言葉です。ヨハネは「あなたがたは蝮の子らと言うべき罪人であり、神の怒りがあなたがたに迫っている。それを免れることはできない」と言ったのです。彼がそう言ったのは、悔い改めることを実際にしないで、ただ洗礼を受けて罪の赦し、清めのみを得ようとする人々がいたからです。一方でヨハネの言葉を真剣に聞いた人々は、10節にあるように、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。この問いに対するヨハネの答えは、ある意味でわたしたちをがっかりさせる、拍子抜けさせるようなものだと言えます。しかし、ここでヨハネが示そうとしているのは、悔い改めは心の中だけですることではなく、生活の中で具体的な行動として表されるべきものだということです。そして悔い改めは、それにふさわしい実を結ぶことがなければ本物ではないというのです。つまり、わたしたちの日々の生活が、そこで考えること、することが、神様の方に心を向けたものとならなければならないのです。そうすれば、それまでは神様のことなど思わず、そちらに顔を向けることなしに営まれていたわたしたちの生活が、神様を意識し、その目の前での歩みとなるのです。

 悔い改めは、日々の具体的な生活から始まりますが、わたしたちの日々の生活は罪にまみれたものです。しかし、罪にまみれた生活を送りつつ、心を神様に向けて、そこで自分に出来ることをして、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことをヨハネは求めているのです。

 ヨハネは、人々に悔い改めを求め、悔い改めて罪の赦しにあずかるしるしである洗礼を授け、また悔い改めにふさわしい実りとしての新しい生き方を、それぞれの生活に即して具体的に教えました。そのようなヨハネのことを、人々は、「もしかしたらこの人がメシアではないか」と思ったのです。メシアというのは、旧約聖書においてその到来が予告されている救い主のことです。その人々に向かってヨハネは、自分はメシア、救い主ではなくて、その到来の備えをし、主の道を整える者だ、と語りました。つまり、メシア、救い主はこれから来るのであって、自分はその前座を務めているに過ぎない、ということです。それが16節の「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」という言葉です。履物のひもを解く、というのは、当時奴隷の務めの中でも最もいやしい仕事とされていました。わたしの後から来る、わたしよりも優れた方と比べたら、わたしは奴隷よりもなお卑しい者でしかない、とヨハネは言ったのです。ヨハネはこのように、「自分よりも優れた方」の到来を意識しており、そのために備えをすることこそ自分に与えられた使命であることをわきまえていました。その「わたしより優れた方」こそ、この後登場する主イエス・キリストのことです。ヨハネは、主イエスのために道を整えよと荒れ野で叫ぶ者の声だったのです。

 ヨハネは人々に悔い改めを求めました。神様に背いて生きている人間の根本的な罪を指摘し、神様の方に向き直るようにと教えたのです。そしてその悔い改めが、人々の生活の中にどのように実を結ぶのか、生活がどのように変わっていくのかを具体的に示しました。ヨハネは、具体的な生活の変化を伴う悔い改めを通して与えられる罪の赦しを宣べ伝え、そのしるしとしての洗礼を授けたのです。

 しかし、わたしたちが聖書を通して与えられているのは、このヨハネの教えだけではありません。このヨハネよりも遥かに優れた方である救い主イエス・キリストによる救いの恵みが、わたしたちにはすでに与えられています。それは、神様の独り子であられる主イエスが、わたしたちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださることによって、罪の赦しが与えられたということです。この、ヨハネよりもはるかに優れた方である主イエスによって、このような救いが実現していることをわたしたちは示されているのです。わたしたちが受ける洗礼は、この主イエスの十字架による罪の赦しの恵みにあずかる洗礼です。悔い改めによって罪の赦しにあずかるヨハネの洗礼とはそこが違うのです。そうであるならば、主イエスによる罪の赦しにあずかったわたしたちは、もはやヨハネが教えるような悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要はないのでしょうか。そうではありません。むしろわたしたちは、主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかっているからこそ、悔い改めることができる、神様の方に向き直ることができるのです。自分自身のことばかりを見つめている目を、神様に向けることができるのです。そしてヨハネが教えたように、日々の生活において、神様に心を向けて歩むことができるのです。主イエス・キリストがわたしたちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださったことによって、罪が赦され、神様の祝福の中に生かされている、その恵みの中で生きる時に、自分のものを自分のためだけに使うのではなくて、自分の生活は決して豊かではなくても、より貧しい人たちを支えていくことができるようになるのです。わたしたちが罪にまみれた生活を完全に抜け出すことは出来なくても、その中で自分に出来ることをして罪と戦い、与えられている地位や力を人々のために用いていくことができるようになります。また、どこまでもわたしたちの欲望をかき立てようとするこの社会の中で、貪欲に支配され、振り回されるのでなく、与えられているものに感謝して生きていくことができるようになるのです。ヨハネよりもはるかに優れた方である救い主イエス・キリストの恵みの中でこそ、わたしたちはヨハネが教えた悔い改めにふさわしい実を実らせていくことができるのです。 閉じる