2024.12.8 待降節第2主日礼拝《アドヴェントⅡ》
マラキ書 3章1~4節
フィリピの信徒への手紙 1章3~11節
ルカによる福音書 3章1~6節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
3章3節にありますようにヨハネは「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていました。彼はヨルダン川沿いの地方一帯の人々に向けて宣教し、そこで洗礼を授けていました。それは預言者イザヤによって預言されていたことが実現したということなのです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」 ここにある「荒れ野で叫ぶ者」というのは、この洗礼者ヨハネのことです。「荒れ野」というのはよく聖書に出てきます。よく例えで出されるのはこの世の有様が荒れ野で例えられています。木も生えないような不毛の地、苦しいこと悲しいこと、悲惨なことが起きているこの世の中。それらが荒れ野に例えられることが多いのです。そしてこの世の現実だけではなくて、人間の心の中も荒れ野であると言われています。なぜわたしたちの心の中は荒れ野なのでしょうか。それはわたしたちは罪にまみれた存在だからです。 4節にある「主の道」というのは、どこに続く道なのでしょうか。6節に「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」とあります。神の救いに至る道、それは救いへの道ということなのです。その救いへの道を備える、整えるには、どのようにすればよいのでしょうか。3節に「罪の赦しをさせるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。先ほどわたしたちの心の中は荒れ野であると申し上げました。わたしたち人間はお互い愛し合うどころか、傷つけ合い、ときには殺し合ってしまいます。そのような罪の中にあるわたしたちですが、それは聖書で言うところの罪がなせる業なのです。罪の力によってわたしたちはがんじがらめにされているのです。 わたしたちには、わたしたちが過去に犯してしまった罪、わたしたちが知らずに犯してしまった罪が、数多くあります。その罪の一つ一つ全てをわたしたちが償っていくことは到底できることではありません。しかし、神様はその罪深いわたしたちに赦しを与えてくださいます。3節に、「罪の赦しをさせるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とありますが、わたしたちの罪が赦されるために、悔い改めなさいとヨハネは呼びかけたのです。荒れ野で人々に叫んだのです。「悔い改める」というのは、自分がしでかしたことを後悔する、あんなことするんじゃなかったと後悔するという意味の他にもっと本質的な意味があります。それは神様の方に180度方向転換するという意味です。神様に背き逆らい、神様に背を向けていたわたしたちが、180度向き直って方向転換する。神様の方に向き直る。神様に立ち返ることを意味しています。しかし、神様の方に向き直ることによって、自動的に罪の赦しが与えられるということではありません。わたしたちが一生懸命、悔い改めれば、神様が罪を赦してくださる。そういう単純な話であれば、神様が何か自動販売機のようなことになってしまいます。わたしたちの行いによって、神様をコントロールできることになってしまう。しかしそういうことではなくて、神様があくまで恵みとして、罪の赦しを与えてくださるのです。悔い改めるとは、神様に180度向き直ることです。神様に立ち返るということです。悔い改めは、実はそのことも神様の賜物、恵みによることなのです。神様に立ち返るということ自体が、わたしたちの自分自身の決意や決心でできることではないのです。それは聖霊の力によることです。わたしたちに聖霊の力が注がれて、神様に背を向けていたわたしたちが、180度と向き直って、神様に立ち返ることができる。そのことによって罪の赦しが与えられるのです。 罪が赦されることによってわたしたちに何が与えられるのでしょうか。それは6節にありますように、「神の救い」ということです。罪の赦しというのは、わたしたちが犯してきた罪、知らずに犯してきた罪が赦されるということですが、もっと広く言えば、人と比べて自分はどうしようもない人間だと思ってしまう、劣等感に落ち込んでしまう、自分のことが大嫌いだと思っても、そういうときでも、神様は「そんなお前を受け入れる、赦し、愛する」と言ってくださるのが、この罪の赦しということです。そのために神様は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられました。わたしたちがそのようにしていただける資格は何もないにもかかわらず、無償でその救いを与えてくださる。それはまさに神の愛ということです。わたしたちは、生まれてからずっと神の赦しと愛の中で生かされていたのですが、しかしいかんせんわたしたちは、ほとんど自分のことばかり見て生きてきましたので、その神の赦しと愛を感じ、感謝することが非常に少なかった者たちです。わたしたちが、そのようなどうしようもない人間ですが、神様はわたしの方に向き直れ、わたしに立ち返れといつも招いていてくださるのです。わたしたちはこのアドヴェントのとき、改めてその神様のみ声に聴いて、神の愛に支えられて、導かれて罪の赦しへと至らせる悔い改めの道を歩んでまいりたいと思うのです。それがまさに荒れ野であるわたしたちの心が整えられ、救いへの道が備えられるということなのです。 それは自分の力だけでできることではなく、自分が悔い改めるためには、聖霊の力を受けることが大切です。聖霊の力はどうすれば受けることができるのでしょうか。わたしたちが今このようにして、礼拝をお献げして、そして教会において主にある兄弟姉妹とともに、よき交わりのうちに歩み、神様と隣人とに仕えております。まさにキリストの体なる教会にわたしたちがつながっていくときに、聖霊の力が恵みとしてわたしたちに注がれるのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、主の道を整え、整え、救いの道をまっすぐに歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる