2024.12.1 待降節第1主日礼拝《アドヴェントⅠ》
エレミヤ書 33章14~16節
テサロニケの信徒への手紙一 3章9~13節
ルカによる福音書 21章25~36節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
きょうからアドベント・待降節に入りました。 クリスマスとは、イエス様がこの世に来られたことです。その意味は、わたしたちの救いのためです。そのイエス様が再びこの世にこられることを「再臨」と言いますが、それはこの世の終わりの日であり、救いが完成されるときです。「救い」というのはどういうことでしょうか。救いとは、わたしたちの深い罪が赦されるということです。罪が赦されるために、イエス・キリストがこの世に来られ、わたしたちの代わりに十字架にかかってくださいました。わたしたちの罪は赦されているのですが、わたしたちは依然として罪の力に支配されています。罪の力に引きずり回されてしまう。悲しいことにそれが現実です。この世が続く限り、わたしたちにまとわりついている、その罪の力が終わりの日に、救いの完成される日に滅ぼされます。そのときわたしたちが完全な意味で救われるということなのです。 33節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。必ずこの天地が滅びる、そのことは間違いないことであると主は断言されます。しかし、いつそれが起こるのかということは誰にもわかりません。神様だけがご存知のことなのです。一方で、「わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスはおっしゃる。「わたしの言葉」、「神の言葉」は決して滅びないのだとおっしゃる。「わたしの言葉」「神の言葉」とは何か。それは神の御心、神のご意志のことです。それをわたしたちに語り示してくださる、それが神のみ言葉ということです。それでは、神の御心、神のご意志とは何でしょうか。それは独り子、御子イエス・キリストをわたしたちの罪の赦しのために、この世に遣わしてくださって、わたしたちがとても耐えられないような苦しみを味わわれて、死なれ、そして復活を果たされる、それがわたしたちの救いであり、それが神の御心、神のご意志ということなのです。その神の御心、神のご意志というのは、決して滅びることがないというのです。何ものによっても壊されることはないというのです。わたしたちはこのことを信じることによって、いつかはこの天地は滅びるが、いつその終わりの日が来るのだということで、不安におののく必要はないということなのです。その終わりの日というのは、わたしたちが絶望して、恐れの中で迎えることではなくて、わたしたちの救いが完成される日なのです。わたしたちを今も縛り続け、支配し続けている罪の力が滅ぼされ、そして、新しい天と新しい地が造られる。わたしたちは、そのときをビクビクしながら迎えるのではなくて、恋人がわたしを訪ねてくることをわくわくしながら待ち望むときのような喜びをもって待ち望むべく、わたしたちが生きていく。将来に向かってそういう不安や恐れを持って、ビクビクして生きるのではなくて、今を精一杯生きていく。そのような希望が与えられているということなのです。 それでは、そのようないつ来るかわからない日、イエス・キリストがこの世に再び来られる日まで、わたしたちはそのときまで、どのように生きていくべきなのかということが、34節から36節に記されています。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。・・・・・しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」とあります。まず「心が鈍くならないように注意しなさい」と34節にありますが、罪の力に支配されているわたしたちですが、「心が鈍くならないように注意」することは、弱いわたしたちの力ではなかなかできることではありません。ではどうすればいいのでしょうか。36節にあるように「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と主イエスはおっしゃいます。「心が鈍くなる」ということは、眠くなるということです。おカネや財産などこの世のことに惑わされて大切なことを見ることができないという状態のことを指しています。そうならないようにしっかりと「目を覚ましていなさい」「人の子の前に立ちなさい」と主はおっしゃいます。「人の子」というのはイエス・キリストのことです。主は、しっかりとわたしの前に立ちなさいとおっしゃっている。そうするためには、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。「祈りなさい」と主イエスはお命じになっています。わたしたちは日常生活の中で、どれほど神様に祈っているでしょうか。祈りということが、まさに信仰ということです。神様を信じるということは祈るということです。わたしたちが祈りということを考えるときに、何か整った言葉で神様に祈らなければならないのではないかと考えますが、わたしたちがそのような整った言葉で祈れなくても、わたしたちがどうしても祈れないときうめきにしかならないようなそういう思いでも神様は祈りとして聴いてくださいます。わたしたちのうめきとしか言いようのないような思いでも聖霊が祈りとして神様が聴いてくださるようにとりなしてくださいます。言葉にならない祈り、整わない祈りでも、神様に向かってつぶやくことができれば、それが十分に神様に届く祈りになるのです。わたしたちが日常生活において、どんなことでも神様に祈ることによって、わたしたちは目を覚ましていることができます。この世的なものには惑わされて心が鈍くならないようにしてくださるのです。まさに信仰というのは祈りなのです。そのことをいつもわたしたちは心に留めて、歩んでいきたいと思います。主の御前に立ちつつ、祈りつつ生きることによって、わたしたちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉、神の言葉は、決して滅びない」という御言葉を信じて、悩み苦しみの中にあるときにも、身を起こして、頭を上げて、主イエスが再び来られる日、救いの完成のときを待ち望みながら、忍耐して、希望を持って生きていくことができます。そのことを確信して歩んでいけるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる