2024.11.24 聖霊降臨節第28主日礼拝
ダニエル書 7章13~14節
ヨハネの黙示録 1章4~8節
ヨハネによる福音書 18章28~40節
本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
イエス・キリストは、大祭司やファリサイ派と呼ばれる人たちに激しく憎まれ、捕らえられて、裁判にかけられました。当時ユダヤはローマ帝国に支配されていて植民地でした。ユダヤにおけるローマ帝国の総督はポンテオ・ピラトという人でした。大祭司たちは主イエスをピラトのところに連れて行って、裁判を受けさせたのです。ピラトによって死刑の判決を下してもらおうとしたのです。ピラトはイエス・キリストに死刑に相当するような罪を見出すことができませんでした。できることならこのことに関わりたくない、無罪としてイエスを追い返したいと思っていました。しかし大祭司や、ファリサイ派の人たちは、何とかして主イエスを死刑にしてもらおうと、ピラトに強く訴えたのです。総督官邸の中にファリサイ派の人たちや大祭司たちは入らなかったとあります。ピラトはローマ人であり異邦人ですから、その官邸の中に入るということは、汚れると彼らは考えたのです。そのころ過越の祭りが行われており、そのような異邦人のところに行って、宗教的な汚れを受けて過越の食事をするわけにはいかないということで彼らはピラトの官邸の外にいました。ピラトが官邸の中にいて、主イエスにいろいろ尋問をいたします。ピラトは死刑の判決を下したくないものですから、主イエスがこのように言っているということで、官邸の外の大祭司やファリサイ派の人たちに対して、死刑にするには及ばないのではないか、というようなことを言ったのでしょう。しかし、大祭司たちはそれを突っぱねるのです。そして、ピラトは官邸の内と外とを出たり入ったりしたのです。ピラトがローマ帝国のユダヤ総督として大きな権威と力を持っているのにもかかわらず、自分の官邸の中と外を行ったり来たりして、どうしていいかわからず右往左往するというありさまは何とも滑稽な姿です。 いろいろな質問をピラトが主イエスにいたします。その答えの中で主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とおしゃいました。ここで唐突に主イエスは「真理」と言う言葉を持ち出されます。それに対して「真理とは何か」とピラトは独り言のようにつぶやくのです。真理とは何か。このときのピラトの思いというのは、次のようなことではなかったでしょうか。主イエスがいきなり真理という言葉を出してきて、それが青臭いような哲学的な議論に思える。わたしには全くそんなことは興味がない。自分自身はこれまでいろいろな苦労をして、力でこの地位にのし上がってきたのだ。自分の力を頼みにして、自分は生きてきた。そういう真理などという言葉には、わたしは全く興味がない。そんなことが何になるんだ。おそらくそんなことを彼は考えてつぶやいたのでしょう。 なぜ彼は自分の官邸から出たり入ったり、行ったり来たりするという滑稽な姿をさらしてしまったのでしょうか。もし主イエスという人が、力強い屈強な人で、明らかにローマ帝国に対して反逆の態度を示す人であったとすれば、ためらうことなくこのピラトは、死刑の判決を下したことでしょう。しかし、ピラトはこの主イエスという人に、どうしても死刑に相当するような罪を見出すことができなかったのです。それは彼の正直な思いだったのです。ここでわたしたちが注意しなければならないことは、このピラトの姿はわたしたちの姿に重なるのではないかということです。わたしたちはしばしば人生上の困った問題に直面したとき、右往左往することが多いのではないでしょうか。わたしたちは、主イエスのおっしゃった「真理」という言葉にしっかりと向き合っていたならば、右往左往するような姿をさらすことは起こらないのではないでしょうか。そのためにも主イエスが示そうとしておられる「真理」とは何かについて考えることが大切です。それは、3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるように、このことがまさに主イエスが証ししてこられた「真理」ということなのです。この真理に向き合うことなしに、ピラトがそうであったようにこの世を支配している闇の力とも言える力に翻弄されて、正しいことではないと知りながら、それを止めることができないという不本意な道を歩んでしまうことに抵抗することはできません。一見、上手に世渡りをしているように見えても実はまことに滑稽で、哀れな生き方に陥っていくのです。この神の愛こそ、主イエスが証しておられる真理なのです。その真理を主イエスは証してくださっただけではなくて、十字架の死と復活によってそれを実現してくださったのです。 「真理とは何か」というピラトの質問に対する答えは、主イエスの十字架の死と復活によって、はっきりと示されています。その真理というのは、イエス・キリストの十字架と復活によって示された愛の真理だということです。真理とは何かという問いへの答えが、主イエスの死と復活において、はっきりと示されています。この世の苦しみや悲しみ、罪や弱さ、その全てを主が引き受けて、死んでくださったということ、それが救いの真理です。この真理と向き合うことによって、わたしたちは古い自分を捨て、新しく生きることができます。新しい自分に変えられていくのです。主の十字架を見上げることによってこそ、わたしたちは独り子の命をさえ与えてくださった、神の愛の真理と向き合うことができます。そこに一筋の道が示されて、希望を与えられて、新しく生き始めることができるのです。 わたしたちは、度ごとにこの救いの真理、神の愛の真理にしっかりと向き合っていくことが大切です。それはわたしたち自身の力でできることではなく、恵みとしての聖霊の力が働くことによってこそできるのです。そのことをしっかりと心に留めて、神の愛の真理と向き合い続けていくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる