2024.11.17 聖霊降臨節第27主日礼拝
ダニエル書 12章1~3節
ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節
マルコによる福音書 13章28~31節
                          

「滅びないもの」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 13章28節に「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」とあります。時間の流れの中で歴史というのはいろいろな変化の中に置かれています。様々な因果関係によっていろいろな出来事が起こり、歴史が進んでいく。そして一つの運動として流れていく。そのようにこの「いちじくの木から教えを学びなさい」ということで、主イエスがお示しになりたかったのは、何かが起こるときにはその前兆、しるしがあるということなのです。

 29節から31節に「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみんな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。「これらのこと」というのは、この前に13章からこの前にいろいろ記されていますけれども、戦争の騒ぎや戦争の噂が起こること、地震があり、飢饉が起こること、様々な天変地異。多くの苦難が押し寄せることなどを指しています。それらのことが起きたならば、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」とあります。「人の子」と言うのはイエス・キリストご自身のことを指しています。「人の子が戸口に近づいている。」それは終末が近いということを意味しています。この世の終わりが来る。そのときには、天にいらっしゃる父なる神様の隣におられるイエス・キリストが再びこの世に来られる日が来ると聖書では約束されています。この世の終わりが来る前兆として、そういういろいろな戦争や地震、大きな苦難がやってくる。それらがやってくれば、終わりの日が近いというしるしであると主イエスがおっしゃっているのです。わたしたちのいま生きている時代はどうでしょうか。わたしたちがいま生きているこの時代、世界も日本も平穏無事に過ごしているのでしょうか。実際に大きな地震があり、復興もままならず困難な状況を抱えている人たちが多くいます。ウクライナやイスラエルのガザ地区などでは、いまわたしたちがこうしている間にも多くの人たちが傷つき、殺されている。核戦争の危機が迫っているとも言われている。世界は危険な方向に向かっているのではないかと言われております。そういう意味では、わたしたちもこの世の終わり、終末はすでに始まっている。その中に生きていると言っていいのではないでしょうか。わたしたちもまた終末というものを意識しながら生きているのではないでしょうか。31節に、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。「天地は滅びる」と主イエスはおっしゃっています。必ずこの終わりの日は来るのだ、天地は必ず滅びるのだということははっきりとおっしゃっているのです。その終末ということが、いつ来るのかということですが、それは天の父なる神様以外誰にもわかりません。わたしたちはそうであるならば、終わりの日がいつ来るのかビクビクしながら、生きていなければならないのでしょうか。そういうことではありません。だからといって、そういう終わりの日が来るということに耳と目をふさいでそれがないかのように生きるということはできないのです。わたしたちがいつ来るかわからない終末を意識しながら生きていかなければならないとすれば、どういうことを大切にして生きなければならないのでしょうか。偉大な宗教改革者の一人であるマルチン・ルターが言った言葉に次のような言葉があります。「たとえ明日、この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える。」明日終わることがわかっていたとしても、わたしは今日リンゴの木の苗を植えるのだ、たとえ、明日終わったとしても、今自分がなすべきことは何かと考えて生きるのだとルターは述べているのです。しかし、わたしたちが、もし明日世界が終わるということがわかったとすればどうでしょうか。どうせ終わってしまうのだから、破れかぶれになって、好き放題、自分の好きなことをしてしまうようになってしまうのではないでしょうか。しかし、ルターは今日リンゴの木の苗を植えるというのです。明日そういう終わりの日が来ても、絶望的にならないで前を向いていく。いまをしっかりと生きる。しかし、これは大変なことです。強靭な意志力を持っていないとできないように思われます。ルターは自分の決意や決心でもって、そういうふうに生きろ、と語ったわけではないのです。

 それではどうすればそのように生きることができるのでしょうか。その答えが今日のみ言葉の最後にあります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とあります。神の言葉は真理であり、永遠に揺らぐことはないということなのですけれども、神の言葉とは、主イエス・キリストによる救いということを告げる言葉なのです。その救いとは何か。主の十字架と復活です。十字架による救い、わたしたちの罪を赦してくださるために、わたしたちの身代わりとなって十字架にかかって、わたしたちの想像を絶する苦しみの後に死なれ、そして復活なさる。さらにその復活によって、わたしたちに新しい命、復活の命、永遠の命に生きる希望を、生きる道を与えてくださったということ、それが神の言葉の中心です。神の言葉は、神の救いを告げる言葉なのです。神の言葉は、主イエスの十字架の死と復活によって実現した、神の救いの約束を告げているのです。言い換えるならば、天の父なる神の愛が、死の力をも打ち破るものであり、わたしたちの人生の終わりである死をも超えてなお、わたしたちを新しく生かすものである、そのことを神の言葉は告げているのです。そうであればこそ、ルターは「たとえ明日、この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える。」と語ることができたのです。そこには、将来に対する絶望ではなくて、希望、展望があります。わたしたちは礼拝のたびごとに聴く神の言葉によって、キリストと出会い、み言葉の力をいただいて生きる力を与えられるのです。

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