2024.11.10 聖霊降臨節第26主日礼拝
列王記上 17章8~16節
ヘブライ人への手紙 9章23~28節
マルコによる福音書 12章38~44節
本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
主イエス・キリストが、大勢の群衆に向かって「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃいます。律法学者と呼ばれる人は、神様の戒め、聖書の教えを民衆に伝えて、どうしたら正確に神様の教えを実践することができるかということを、教え実践していた人たちです。律法学者たちに対して、主イエスは福音書の中で、しばしば厳しく非難しておられます。彼らは、人々に尊重される、尊敬されるということを求めていました。本来であれば、神様の前にへりくだって生きなければいけないのですが「会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、またやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りを」したりしていました。律法学者たちは、人前で「長い祈りをする」などとにかく人の目を気にして、自分がいかに神様に敬虔に仕えているかということを見せびらかしていました。そのような者たちをに気をつけなさいと主イエスはおっしゃるのです。まさに彼らこそ偽善者だと、いうことを別の福音書でも厳しく批判なさっています。一方で41節以下にあるように、そのような偽善的な行いをする律法学者と対照的な人が出てまいります。貧しいやもめがいて、その人が神殿で賽銭箱にお金を入れていたということです。42節に、彼女は金持ちたちに混じって、「貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」とあります。一クァドランスというのは、今でいえば、百五、六十円といったところでしょうか。そのぐらいのおカネを彼女が賽銭箱に入れるのを主イエスは見ておられました。この貧しいやもめは本当に貧しくて、それこそまさに「爪に火をともす」ようにして、日々暮らしていたのでしょう。その姿を見て主イエスが、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」とおっしゃる。この貧しいやもめが生活費の全部を入れましたが、大勢の金持ちたちはどうだったのでしょうか。おそらく、自分が持っているお金の一部を入れていたのでしょう。全財産を入れるなどということはしていなかったはずです。この貧しいやもめは、大勢の金持ちがたくさん賽銭箱にお金を入れている中で、本当にわずかなおカネを賽銭箱に入れました。周りの人たちは、冷たい目で彼女を見たことでしょう。なんと少ない額を入れたのかと非難したことでしょう。しかし彼女は、おそらく自分がそういう少ない額を入れることで、周りからそのような厳しい目を注がれるということは十分予想していたはずです。しかし彼女は、あえてそのようなことをしました。彼女は本当に自分のしたいことを、人の目を気にせず、やり遂げたのです。わたしたちは、人からの評価、人の目からどう見られるか、人の目ばかり気にします。そういう意味ではわたしたちもあの律法学者たちとなんら変わりはありません。彼女はそういう、人と比べるということから、自由になっていたのです。誰々さんよりもわたしは劣っているとか。優れているというような、比べ合って競争するようなことから、彼女は解放されていたのです。 それでは、なぜ彼女は自分の生活費の全てを入れることができたのでしょうか。この金持ちの人たちは、おそらく自分たちの全財産を賽銭箱に入れたわけでありません。なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。それは端から見れば、まさに無謀なことであったのですが、彼女は人目を気にすることなく、そういうことができました。自分の身を守るためにとっておく分も全て献げました。神様に全てをお献げして行く、お委ねして行くことを皆に示しました。一方、前半に出てきた律法学者は、人から尊敬されるということを、人から重んじられるということを、人によく思われるようなことを、自分の支えにしてきたのです。そういった、人から重んじられるような権威とか、力とかを大切にしていた。そういうことに依り頼んで生きていたのです。この貧しいやもめは、そうではなく、全てを神様にお委ねした。なぜ彼女がそういうことができたかというと、彼女が神様へのまったき信頼に生きていたからなのです。全てをお委ねしても大丈夫だという、その貧しいやもめの神様への信頼感によって、彼女はそうにすることができたのです。41節に「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」とありますが、イエス・キリストは、この貧しいやもめのこともしっかりと見ておられたのです。なぜなら、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃっているからです。彼女が全財産を入れたと主イエスがおっしゃったのは、その数百円のお金が彼女の全財産であるということを、主イエスは見抜いておられたのです。主イエス・キリストがその貧しいやもめを、慈しみに満ちた眼差しで見ておられたのです。そのことにこの貧しいやもめは、信頼していたのです。主イエスへの厚い信頼があったからこそ、彼女はそういうことができたのです。そのようにして、主イエスから愛の眼差し、慈しみに満ちた眼差しで見ていただけるからこそ、この貧しいやもめは、人と比べるようなこと、人からの評価、人の目を気にすることから解放されたのです。主イエス・キリストの慈しみに満ちた眼差しは、わたしたち一人一人にも注がれています。主イエスのその慈しみに満ちた眼差しが、人の目や人からの評価、人からの誉れを超えて、わたしたちを支え、生かし、力付けるのです。わたしたちはこの主イエスの愛の眼差しの中で、生かされることによって、このやもめのように、人と比べること、人の評価や人の目から自由になって、自分の持っているものを、それがどんなにちっぽけで、取るに足らないものと感じられても、神様にお献げすることができるのです。そのことを確信して歩んでいけるように祈ってまいりましょう。 閉じる