2024.11.3 聖霊降臨節第25主日礼拝
申命記 6章1~9節
ヘブライ人への手紙 7章23~28節
マルコによる福音書 12章28~34節
本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
福音書には、律法学者やファリサイ派と呼ばれる人たちが出てまいります。きょうの聖書箇所である律法学者が、主イエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と質問をいたしました。掟というのは、律法ということです。律法には六百以上もあると言われています。その中でも最も有名なのは、十戒と呼ばれる掟です。「わたしの他に神があってはならない、殺してはならない、姦淫してはならない」という戒めがあります。そういうたくさんある戒めの中で、一番何が大事なのかということを、この律法学者が質問したのです。それに対して主イエスが、第一の掟は、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」とおっしゃいました。これは神への愛ということですが、まず主イエスは「わたしたちの神である主は、唯一の主である」とおっしゃいます。主はたった一人の神であって、その神は、あなたがたを奴隷の国エジプトから導き出して救ってくださった神なのです。神ご自身があなた方を本当に愛して、救いに導いてきたと、それは唯一の神である、神とあなたとの一対一の関係においてそういうことがなされているのです。ですから、そういう深い愛を注いでいただいているわたしたちが、当然その愛に感謝して神様を愛することが大切なのです。神様を愛するということは、神様に従う、神様にお仕えするということです。神様との一対一の交わりに生きる、神様のみ言葉を信じて神様に従っていく。そういう神様との交わりにこそ、わたしたちの人生における希望、平安があるのです。そして「隣人を愛する」ということ言われます。それは自分の好きな人たちだけを愛するのではない愛です。これは自分がどちらかといえば苦手だなと思う人とか、お互いがいがみ合ってるような、敵対関係にあるような人たちをも愛しなさいという掟です。それも「神への愛」と同様に大切な掟だということなのです。 律法学者が主イエスに質問した後に、「先生おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と彼は言います。彼はおそらく、主イエスに対するその質問の答えを知っていたのでしょう。イエス・キリストはその彼に対して「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。しかし「あなたは神の国に入っている」とは、主イエスから言っていただけなかったのです。「神の国から遠くない」とは、あなたはあくまで神の国の外にいる、ということです。彼は、神の教え、律法に対する高い知識、知恵を持っていたのですが、イエス・キリストから見れば、神の国に入ってはいないと言われてしまいました。それでは、彼に欠けているものは何だったのでしょうか。わたしたちはそのままではとても律法を守れるような者ではありません。だから、「神様、憐れんでください。どうしたらいいでしょうか」と神様に迫る、祈り求める、そういう姿勢を、神様は求めておられるのです。10章13節以下に子供たちの話が出てきます。主イエスのもとに子供たちが連れて来られ、弟子たちがその子供たちをうるさがって、追い払おうとします。しかし、主イエスが子供たちを来るままにさせておきなさいとおっしゃって、その弟子たちを叱って、神の国はこのような子供たちのものである、子供たちのような者でなければ神の国に入ることはできないと、主イエスはおっしゃいます。それは、子供がかわいいからということではありません。子供は大人の助けがなければ生きてはいけない弱い存在です。自分の力で生きていくことはできない。大人の差し出す手を、しっかりと握りしめて行くしかない。そうであるならば、わたしたちも自分の力により頼むのではなくて、神様の憐れみ、神様の助けをひたすら祈り求め、主イエスに従っていくことが求められているのです。主イエスを信じ、その御跡に従っていくのであれば、わたしたちはすでに神の国の外側にいるのではなくて、すでに神の国に入れられていると言ってもいいのです。わたしたちが神の戒めを守ろうとしても守れない者であっても、子供のように神の救いをひたすらに求め、イエス・キリストを信じ、主イエスの御跡に従っていけるように祈り求めていく。そうすれば、わたしたちは、聖霊の働きによって、その掟に生きていくことができるように、従っていくことができるように変えられていくのです。その完成というのは終末すなわち、イエス・キリストが再び来られる日において、完成を見るわけですが、イエス・キリストを信じて生きるわたしたちはすでに、神の国に生き始めているのです。わたしたちの力だけでその戒めを守ることはできないのです。そのことをわたしたちはいつも思い知らされます。自分自身を見るのではなくて、神様を見る。主イエス・キリストを見る。自分の手の中を見て、絶望するのではなくて、主イエスの御姿を仰ぐ。憐れみを求める。イエス・キリストが差し出してくださる手をしっかりと握って、主に従って生きる、そのことが、救いへの道ということなのです。 わたしたちはその戒めを、聖書の教えを自分の力で守ることはできないけれども、しかし、守るようにしていただける、そのように変えていただけます。わたしたちはそういう希望に生きているのです。わたしたちはこの戒めを何か堅苦しいことだと思うのではなくて、この戒めを大切にすることによって、わたしたちが生きる上で、いろいろ困難なことがある人生であり、道に迷うこと、失敗することもたくさんありますが、しかし、戒めを光として、希望として、わたしたちが歩むときの足のともしびとして、生きることができるのです。そのことを確信して歩んでいけるように祈ってまいりましょう。 閉じる