2024.10.27 聖霊降臨節第24主日礼拝
エレミヤ書 31章7~9節
ヘブライ人への手紙 5章1~6節
マルコによる福音書 10章46~52節
本日は「マルコによる福音書」を中心に言葉に聴いてまいりましょう。
10章47節に「『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」とあります。盲人で物乞いのバルティマイは、大きな声で、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。ダビデというのはイスラエルの王です。昔からこのダビデの子孫からイスラエルを救ってくれる救い主が現れるということが、イスラエルの人たちに信じられておりました。まさにイスラエルを救う救い主、その方こそイエスという方である。彼はそのことを確信しておりましたので、イエスさまが近くに来られたと知って、そのように叫んだのです。わたしの救い主であられるイエスよ、と彼は叫んだのです。これは彼の信仰の告白と言っていいと思いますが、そのようにして、彼は何度も「叫び続けた」のです。そこで、そのことを聴いて、「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た。」とあります。「あの男を呼んで来なさい」と主イエスはおっしゃったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」とありますが、この「安心しなさい」という言葉は、新約聖書の中でいろいろなところで使われていて、「元気を出しなさい」とも訳されています。「安心しなさい。元気を出しなさい。イエス・キリストがお呼びなっている。」 50節と51節に「盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか。』と言われた、盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです。』と言った。」とあります。この盲人バルティマイは、主イエスの招きを聞いて、本当に喜んで踊り上がって、主イエスのところに来たのです。そのバルティマイに対して主イエスは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。ここでわたしたちは、ちょっと不思議に思うのではないでしょうか。主イエスは、目が見えない人に何をしてほしいのかと問われる。あえてそんなことを聴かなくても、それは自明なことです。それなのになぜわざわざ主イエスは、「何をしてほしいのか」と彼にお尋ねになるのか。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言ったとあります。これは当たり前の答えなのですが、イエス・キリストというお方は、当たり前のことだからといって、そのままになさらないお方です。わたしたち一人一人にしっかりと向き合って、わたしたちが何を欲しているのか、何を祈り求めているのかということを真正面からお聴きになります。わたしたちが、自分の心の中にその思いをただ秘めているだけではなくて、祈りという形で、まっすぐに主に向かって、自分の願いを、祈りを神に注ぎ出す、そのことを主イエス・キリストはわたしたちにお求めになっているのです。そのことを喜んでくださっているのです。祈りというのは単なる気休めではないのです。神様に、主イエスに本当に心の底から熱心に祈り求めることが大切です。「求めなさい。そうする与えられる。叩きなさい。そうすれば開かれる。」と主イエスはおっしゃっています。それは裏を返して言えば、求めなければ与えられない、と言えるのではないでしょうか。わたしたちが心の底から神様に祈り求める、願いを祈る、願いが叶えられるように祈る、その祈りはすぐには叶えてもらえないかもしれないけれども、粘り強く祈る、そのことを主はむしろ求めておられる。喜んでおられるのです。聖書の他の箇所でも「熱心に祈りなさい。粘り強く祈りなさい」と命じておられる箇所が各所にあります。わたしたちは祈りにおいて、あきらめてはいけないのです。 神様はわたしたちに、熱心に一生懸命に祈ることを求めておられる。今日の皆さんと聴いているところでも、バルティマイが「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けると、「目が見えるようになりたいのです」と主イエスにまっすぐに祈り求める、そのことを主イエスは喜んでくださったのです。このバルティマイの祈り、叫びにお応えになって主イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とおっしゃり、「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」と52節にあります。その彼の必死の祈り、願いに応えて、主は目が見えるようにしてくださった。主イエスが、彼のその必死の祈り、願いに彼の信仰を認めて、彼の信仰として、主は受け止めてくださったのです。 バルティマイは、このとき主イエスにこのことを感謝してすぐにその場を離れてもよかったのですが、しかし彼はそうはしなかったのです。最後のところに、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。彼は、なぜ主イエスにお従いしたのでしょうか。彼はその見える目で、主のお姿を見て、彼自身全く新しくされたのです。彼はそれから新しい人生を歩むことができたのです。ただそれは、自分の障がいがなくなったという喜びだけで終わったのではありません。この人は、主イエスによって目を開かれて、主イエスとともに、歩む者とされたのです。 まさに、わたしたちの救いということが、バルティマイの姿を通して示されていると言ってよいでしょう。神の救いとは、わたしたちが衣食住を満足させられるということだけではなくて、主の跡に従うこと、神様のために働くということが、まさにわたしたちにとっての救いなのだ、ということがここに示されているのです。バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」とありますが、彼と同じようにわたしたちもみ言葉に聴いて、古い上着を脱ぎ捨てて、古い自分を脱ぎ捨てて、新しくされる、喜んで主の御跡に従っていく、神の救いにあずかって生きることができるように祈ってまいりたいと思うのです。そのように、主はいつもわたしたちを招いてくださっています。その招きにお応えして歩めるようにひたすらに祈り求めてまいりましょう。 閉じる