2024.10.20 聖霊降臨節第23主日礼拝 《秋の伝道集会》
詩編 23篇1~6節
コリントの信徒への手紙二 12章6~10節
                          

「弱いときにこそ強い」

 本日は、新約聖書「コリントの信徒への手紙二」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 12章7節に「また、啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」とあります。パウロの身に一つのとげが与えられたと。これは例えで言っているわけですが、これが実際はどういうことだったのか詳しいことはよくわかっていません。肉体的な病気、障がいだったと言われております。例えばてんかんの発作とかそういう病気、生まれつきの障がいだったのではないかと言われています。その病気や障がいのために、彼はもっと精力的に神様の教えを伝えるために、一生懸命働きたかったのに、そういう肉体的なとげが与えられているために、思うような彼が望むような働きができない。8節に「この使いについて、離れ去らさせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」とあります。本当にこの病気、あるいは障がいが治るようにと、一生懸命に祈ったのです。

 しかし、彼の祈りにもかかわらず、9節に「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」」とあるように、これはイエス・キリストの言葉が彼に聴こえたということなのです。あなたはそのような病気や障がいを負ったままで、十分に恵みが与えられているということを、主イエス・キリストおっしゃったのですから、祈ったのにもかかわらず、この障がいかあるいは病気を治していただけるということはなかった、ということがわかります。

 なぜ、主イエスキリストは、このパウロの願いを聴いてくださらなかったのでしょうか。7節に「それで、そのために思いが上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。」とあります。「思い上がることのないように」とありますから、パウロは才能のある頭のいい人だったはずです。そのパウロが、自分の力、自分の能力に思い上がってしまわないようにと、あえてとげが与えられる。あなたは弱いままでいいのだと、主がおっしゃるのです。なぜなら、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということだからです。それでは「弱さの中で発揮される力」というのは、どういうことなのでしょうか。それは、人間の力ではなくて、神の力、キリストの力ということなのです。

 誰しもパウロのように、こういうとげ、障がいを取り除いてくださいと、もっと強い人間になりたいと願う。困難な状況の中にあってもへこたれないで、バリバリ仕事ができ、力強く人生を歩んで、成功に向かって歩んでいきたいと思う。わたしたちは、人に言えない部分も含めて、自分の弱さということを抱えて生きています。

 イエス・キリストは、パウロに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」とおっしゃる。わたしたちは自分が弱いからこそ、そこに神様が力を注いでくださる余地が生まれるのです。器に何かがすでにいっぱいに満たされていれば、そこにもう何かを注ぐことはできません。しかし、その器が空っぽであれば、そこに新たに何かを注いで満たすことができるのです。

 ここでパウロが語ったことに目を向けていきたいと思うのですが、10節に「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」とあります。そういう困難な状況の中にあっても、パウロは満足していると語っています。それは自分で自分を慰めるような、そういう諦めといいますか、開き直りということではありません。ここに「キリストのために満足しています」とあります。ここに注目したいと思います。キリストというお方は、二千年前にイスラエルのエルサレムで十字架にかけられて処刑された人です。そのお方は、わたしたちの深い罪が赦されるために、わたしたちの身代わりになって処刑された方です。神様の独り子であられるお方です。神様の独り子であられますから、その方が人となってこの世に来られた、それがクリスマスの出来事です。その方がこの世に来られたのは、わたしたちの弱さを、それによる苦しみ、悲しみというものを身をもって味わい、それらを担ってくださるために、この世にいらっしゃったと聖書には記されています。その主イエス・キリストにおいてこそ、わたしたちの弱さの中で、発揮される神の恵みが示されているのです。わたしたちの弱さを担ってくださり、弱く罪深いわたしたちを救うために、わたしたちの罪が赦されるために、十字架にかかって死んでくださった主イエス・キリストが、復活して、今も生きておられる方として、わたしたちとともにいてくださると聖書はそのことをわたしたちに告げています。パウロ自身が、この主イエスを信じ、主イエスがともにいてくださるということを、その恵みを味わっていたからこそ、この手紙を書いたパウロは、「弱いときにこそ強い」「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と神様に感謝して、語ることができたのです。わたしたちがどんなに困難な状況の中にあっても、自分の力でそれを何とか切り抜ける、ということではなくて、わたしたちの身代わりになって、十字架の上で死んでくださったその方が、目に見えないお方でありますけれども、わたしたちとともにいてくださり、わたしたちを支え、慰めていてくださる。そのお方が、今わたしたち一人一人にも「わたしの恵みはあなたに十分である。」と語りかけてくださっています。このみ言葉を聴きながら生きることがキリスト教の信仰です。その信仰によって、わたしたちも自分の弱さ、苦しみの中で、しかし喜びと感謝をもって、「弱いときにこそ強い」という人生を歩むことができるのです。そのことを信じて、希望を持って歩んでまいりましょう。

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