2024.10.13 聖霊降臨節第22主日礼拝
アモス書 5章4~15節
ヘブライ人への手紙 4章12~13節
マルコによる福音書 10章17~22節
本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
10章17節にあるように、ある人が主イエスに向かって「走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。』」と質問しました。この「永遠の命を受け継ぐ」とは何でしょうか。これは、永遠なる神様のうちにある命にあずかって生きるということを表しています。この人の質問に対して主イエスはおっしゃいました。18節以下に「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善いものはだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」とあります。これは旧約聖書の「十戒」の一部ですが、当時ファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちは、聖書の教え、戒めを生活の中で、正確に守ることができれば、救われると考えていました。民衆にそのことを教え、自らも実践していたのです。すると20節にあるように、「彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」」と彼は答えます。この人は主イエスに走り寄ってひざまずいて、命を受け継ぐには何をすればよいのでしょうかと、質問するくらいですから、本当に神の教えを守って、救われたいと思って、本当に真面目に生きてきた人だったのでしょう。彼は、自分が救われたいと思って本当に一生懸命になって、神様の戒めを守ろうとして生きてきたのですが、自分が救われるためには、それだけでは足りないのではないかという、魂の飢え、渇きを感じていたのです。本当に自分が救われるとはどういうことなのか、この律法の教えを守ることに加えて、何かもっと自分にできることはないのだろうかと、彼は悩んでいたのです。そこで本当の救いという意味で、永遠の命を受け継ぐということを彼は口にして、どうすればいいのでしょうか、と主に質問して得た答えがこの十戒の教えを守ることだ、と主イエスがおっしゃる。彼は拍子抜けしたのでしょう。20節にあるように、「すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました。」」と、彼は答えています。ここには、何か落胆したような、がっかりしたような響きがあります。主イエスという立派な先生からもっと核心的な答えを得られるのではないかと思っていたところ、こういう答えをいただいて、彼は大変がっかりしたことでしょう。しかしその後、主イエスは彼におっしゃいました。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。」とあります。この言葉を聞いて、この人は目を輝かせたに違いありません。やっぱり、イエスという先生は、大切なことをわたしに教えてくださる、律法を守ることに加えて、何かもっとできることをお示しになるだろうと思っていたところ、さらに付け加えて「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という度肝を抜くようなことをおっしゃったのです。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」との答えは、この人の全く予想できない答えでした。この人は大変多くの財産を持っていたのでしょう。彼はこのことを聞いて、自分にはできない、とてもできることではない、とショックを受け、悲しみ苦しんで、その場を立ち去りました。その彼に対して主イエスはこの人を「だめな奴だ」とはおっしゃいませんでした。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあります。この「慈しんで」という言葉は、「愛して」という言葉です。直訳すると、「彼を見つめ、慈しみ愛して言われた」とあります。主イエスは彼を愛し、そこを立ち去る彼を愛の眼差しで見送られたのです。ここに出てくる「ある人」というのは、わたしたちのことでもあるのです。わたしたちは生きていく中で、自分がこれまでしてきた様々なこと、立派な行い、何か自分が誇れるもの、そういうものを大切にしてきました。そういうものにより頼んでわたしたちは生きてきたのではないでしょうか。様々な困難な状況の中に置かれたときに、頼れるのは自分しかいない、自分を信じなさいなどということをよく聞くことがあります。スポーツ選手なども、自分を信じて頑張りましたということをよく言うのですが、何か困難な状況があったときに、わたしたちはなんだかんだ言っても、自分の力により頼もうとします。自分の力で何とかその難局を乗り越えようとするのです。しかし、わたしたちの弱い力だけではその困難な状況を乗り越えることができません。自分の力に絶望するしかないということがしばしば起こります。わたしたちはそういうときに「苦しいときの神頼み」というな安易なことではなくて、本当にそのときに、心の底から助けを神様に祈ることができるかどうかが大切であり、自分の力により頼むのでなくて、神様に救いを祈り求めるということ、神の恵みにわたしたちはひたすらにより頼んでいるのでしょうか。 イエス・キリストは、この後エルサレムに行って、十字架にかけられ、処刑されてしまいます。それは、罪深いわたしたちの罪の赦しのためでありました。主イエスは、自分の財産を捨てよと言われて、捨てられずに悲しみながら立ち去ったこの人のためにも、十字架にかかって、死のうとしておられます。わたしたちは、自分自身の力によって自らを救うということではなくて、あの金持ちの男のように主イエス・キリストの御前から悲しみつつ立ち去る者でしかないということを、わたしたちが本当に知るときに、そこからむしろ新しい道が開かれていくのです。それは、一人の罪人としてキリストの恵みにただよりすがって生きるという道です。主イエスは、その道に歩むようにとわたしたちを招いてくださっています。わたしたちはその招きに応えていくときに、喜んで主イエスに従い、また自分が持っているもの、自分が与えられているものを、隣人のために喜んで用いていく者とされるのです。 閉じる