2024.9.29 聖霊降臨節第20主日礼拝
民数記 11章24~30節
ヤコブの手紙 5章1~6節
マルコによる福音書 9章38~41節
                          

「誰が味方で、誰が敵か」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 9章38節にあるように、弟子のヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言いました。主イエスのお名前を使って悪霊を追い出す、ということをしていた人がいたのです。当時こういうことは必ずしも珍しいことではありませんでした。名前というのは聖書において、その人の存在そのものであり、その人の持つ力がそこに込められているとされています。十戒の中に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあるのもそういうことを前提としているのであって、これは要するに主の名を呪文のように使って自分の願いをかなえようとすることを禁じているのです。そういうことからすれば、ヨハネは、主イエスのお名前を呪文として用いて悪霊を追い出している人を見て、それをやめさせようとしたと考えられます。ヨハネはその人に、主イエスのお名前によって悪霊を追い出しているなら、あなたもわたしたちと行動を共にして、主イエスに従って来なさい、と言ったのです。しかしその人はそれに従いませんでした。それでヨハネは、その人の悪霊追放の業をやめさせようとしたのです。

 「主イエスの名を使って悪霊を追い出している人」については、次のようにも考えられます。この人は主イエスの名前をただ呪文のように唱えて奇跡を行おうとしていたのではないのではないか、ということです。なぜならば、使徒言行録の19章に、そういうことをしてみた人がいたことが語られているからです。あるユダヤ人の祈祷師が、悪霊に向かって「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたのです。すると悪霊は言うことを聞くどころか、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って逆に飛びかかってきて、彼らはひどい目に遭ったのです。このことは、主イエスの名前だけを呪文のように用いるなどということは出来ない、ということを示しています。ひょっとすると本日の箇所の「み名を使って悪霊を追い出している者」というのは、主イエスを信じる信仰者の一人だったのではないでしょうか。もちろんこの人は、弟子たちのように全てをなげうって主イエスに従い、共に歩んでいる訳ではありません。そういう意味では不十分な、欠けの多い信仰者です。けれども基本的には主イエスを信じる信仰によって、悪霊につかれた人を癒そうとしていたのではないでしょうか。そうだとすればヨハネは、基本的には共に主イエスを信じている仲間であるはずの人を、自分たちと同じようにしない、自分の言うことを聞かないという理由で、 敵として見てしまっていたということになるのです。

 そういうヨハネに対して主イエスは、人を敵として見てしまうのではなくて、味方を得ていくような、そういう目で人を見つめなさいと教えておられるのです。それが、40節にあります「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というお言葉の意味です。人を敵として見つめ、対立していくのではなく、味方として見て行くような目、それは、人が自分と違っており、自分の意見に従わず、自分を尊重しないからといって怒り、批判し、攻撃するのではなくて、人が自分の悪口を言わないことを喜び、たとえいろいろ意見は違っても、根本のところで共通しているならば、むしろその共通点をこそ見つめ、交わりを大切にし、忍耐をもって共に歩もうとするという目です。違いを見出して対立していくのでなく、一致している所を見出して喜ぶ姿勢と言ってもよいでしょう。そういう目で人を見、そういう姿勢で人と接しなさいと主イエスは教えておられるのです。そうすることによってあなたがたは、周囲に敵をつくり出して孤独になっていくのでなく、味方をつくり出し、よい交わりの輪を広げていくことができる、それが主イエスのここでの教えなのです。

 わたしたちは、自分の周囲の人たちと、主イエスを信じる信仰を共にしたいと切に願っています。共に礼拝を守り、祈ることができたらどんなにすばらしいだろうかと思います。しかし現実にはなかなか願ったようにはなりません。それらの人たちに一生懸命働きかけても振り向いてもらえなかったり、働きかけるきっかけさえつかめない、ということもあります。けれども、そのことを悲しんだり、いらだったりするな、と主イエスは言っておられるのです。あるいは、家族を信仰に導くことができないのは自分の信仰が足りないからだなどと否定的にものを見るなと言っておられるのです。自分がイエス・キリストを信じる信仰者であることを、家族の者たちが少なくとも認めてくれているなら、礼拝へと送り出してくれるなら、ましてや教会に車で送り迎えしてくれるなら、そのことを大いに喜び、感謝しなさい、その人たちは決して敵などではない、味方なのだ、その味方をわざわざ敵にしてしまうようなものの見方をするな、わたしたちは信仰において、敵をつくり出していくのではなく、どんなところでも味方を見出していくことができるのだ、それが主イエスのこのお言葉の趣旨なのです。

 神様は、罪人である私たちのために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。その主イエスが私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦し、かつて敵であった私たちを友として下さったのです。人間の罪によってもたらされる敵対関係を乗り越えて、敵を味方へと変えて下さる、それが主イエスによる救いであり、そういう救いを与えようとする恵みの目で、神様は私たちのことを見つめて下さっているのです。この恵みのまなざしを感じ取ることによって、私たちは少しずつ変えられていきます。そのことに希望を置いて、神様が私たちを見つめて下さっているその愛のまなざしで、周囲の人々を友として見つめ、よい交わりを築いていくことができるように祈り求めていきたいと思うのです。

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