2024.9.22 聖霊降臨節第19主日礼拝
エレミヤ書 11章18~20節
ヤコブの手紙 3章13節~4章10節
マルコによる福音書 9章30節~37節
                          

「仕える者になりなさい」

 本日は、「マルコによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 9章35節にありますように、主イエス・キリストは弟子たちに向かって、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」とお命じになりました。主イエスはなぜこのように、弟子たちにお命じになったのでしょうか。それはその前の33節から34節のところで、「イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」とあります。弟子たちは、だれがいちばん偉いかということを議論し合っていたということで、そのことを主イエスはお聴きになって、この35節の言葉を語られたということなのです。「誰が一番偉いか」などという議論はわたしたちはほとんどいたしませんが、弟子たちはなぜそういう議論をしていたのでしょうか。具体的にどういうことでそういう議論していたのでしょうかか。前回聖書に聴いたところで、「あなたこそメシアです」「救い主であられます」とペトロが主イエス・キリストに対して信仰の告白をしたわけですが、それに対して「自分を捨て、自分の十字架を負って従いなさい」と主イエスがお命じになりました。そういうご命令があったことに対して弟子たちは、自分こそが、主イエスのみ跡にしっかりとお従いしていく者であるということについて自負といいますか、そういう主イエスにお仕えするということにおいて、自分こそが一番だというようなことで張り合っているということがあったのではないでしょうか。その彼らの議論を聞いていて、主イエスが、「すべての人に仕える者になりなさい」とおっしゃいます。そこで主イエスが、そのことの意味をしっかりと弟子たちに、そしてわたしたちにわからせるために、何をなさったかということが、このみ言葉の後に記されています。36節から37節に「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」とあります。なぜ主イエスはここで子供をそのように扱われたのでしょうか、子供を持ち出してお話をなさったのはなぜでしょうか。子供はかわいいから、そのように扱えということなのでしょうか。そうではありません。ここでは主イエスはそのような意味でおっしゃったのではありません。子供はかわいいので、あえてそういうこと言われなくても、大人は子供をかわいがる、大切にするということはあります。しかし、当時のパレスチナにおきましては、女性と子供は一人前の人間として扱われていませんでした。人として数に入れられていなかったのです。現在から見れば、理不尽な、とんでもないことですが、当時はそのように女性や子供はとても低く見られていたのです。子供は、力がない者、数にも入れてもらえない、みんなに無視されるような存在でした。さげすまれ、低く見られ、馬鹿にされていた、そういう存在だったのです。その子供を、主イエスは「その子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」とまでおっしゃったのです。子供だけではなく、大人の中で取るに足りないと考えられている人たち、蔑まれる人に対しても、同じように仕えなさいと主イエスはおっしゃったのです。イエス・キリストは、天の父なる神の御子としてこの世に遣わされました。それは、イエス・キリストが、すべての人に仕えるために来てくださったのです。この罪深いわたしのために来てくださり、そして十字架にかかってくださったのです。そうであるならば、すべての人において、だれかがだれかより偉いとか尊重されるとか、そういうことは意味をなさなくなってくるのではないでしょうか。わたしたち自身にとって、苦手な嫌いな人たちがいたとすると、その人のためにも、主イエスは十字架にかかってくださったのです。社会から差別され、迫害を受ける。皆に無視される。そういう人たちは、この世にたくさんいます。そういう人たちもすべて、その人たちのために、その人たちの救いのために、わたしたちが耐えられないような大きな苦しみを受けられたお方がおられます。その方を見上げるならば、だれが偉いとか、偉くないとかという議論は、全く意味をなさないものになるのではないでしょうか。

 人と比べるために人に向けている視線をわたしに向けなさい。わたしに従いなさい。そのように主はおっしゃるのです。わたしを見よ、と主はおっしゃる。わたしたちが十字架の主をしっかりと見上げようとするならば、よそ見をしている暇はないのです。この罪深いわたしの救いのために主イエス・キリストが十字架にかかられた、ということであるならば、人と比べて、自分がどうのこうのということではなくて、わたしたち自身と主イエスとの関係が中心なのです。主とわたしたち自身との関係で、それはなされたことです。主は、わたしたちの救いのために十字架にかかられて復活なさいました。そのわたしと主イエスとの関係を考えるときに、わたしたちはよそ見をしている場合ではないのです。よそに向けている視線をわたしの方に向けなさい、と招いてくださるお方がおられます。まず第一にわたしを見なさい。そして、わたしが愛するあなたの隣人を愛し、仕えなさい、すべての人に仕えなさい、と主は招いてくださるのです。わたしたちはすべて、主の前ではただの罪人に過ぎません。だれが偉いとか、だれが劣っているとかそういうことを考えることは、あまり意味のないことです。わたしたちはただ、主イエスを見上げて、主イエスのみ跡に従っていくだけです。だれがいちばん偉いか。あの人に比べてわたしは優れているとか劣っているとか、そんなことを議論している暇はないのです。わたしたちは、主をまっすぐに見上げて、お互い赦し合い愛し合い、仕え合って生きる者となれるように祈り求めてまいりましょう。

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