2024.7.21 聖霊降臨節第10主日礼拝
エレミヤ書 23章1~6節
エフェソの信徒への手紙 2章11~22節
マルコによる福音書 6章30~34節
                          

「キリストにおいて一つ」

 本日は、「エフェソの信徒への手紙」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

   この手紙は、使徒パウロが自分で宣教して建てた教会の信徒に向けて書かれた手紙です。

 エフェソの教会内で異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者との間に対立が生じていました。その問題解決のアドバイスを求める手紙をパウロはエフェソから遠く離れたところで受け取ったのです。パウロは地中海の各地を宣教して、各地に教会を建てていたのです。

 わたしたちの現代社会においては、何か対立する事柄があった場合には、その間を取り持つ人がいて、それぞれ譲り合って、一致点を見出すようにするというような制度がありますが、パウロはそういうようなことは提案しませんでした。パウロが大切な教えとして伝えてきた神の教えを、もう一度別な言い方で強調するとう形で答えを彼らに手紙で示したのです。16節に「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあります。まず神との間に和解を図る。これはどういうことなのでしょうか。わたしたちの祖先であるアダムとエヴァ以来、わたしたちは神の教えに背き、自分勝手に一人で自分を中心に生きる者となってしまいました。そのため人は、お互いに誤解しすれ違い、お互いに傷つけ合い殺しあうまでになってしまいました。それがまさに聖書で教える罪ということですが、人間と神との間に、敵対的というような関係ができてしまう。神の教えに逆らう人間は、神から罰を受けなければいけないわけですが、その罰を人間に与えるのではなくて、御自分の愛する御子イエス・キリストを十字架にかけるという刑罰が下されることによって、わたしたちの罪が赦され、神との間に和解がもたらされるということです。そして、それを通じて、わたしたち人間同士の間での、敵対関係、罪に基づく対立が乗り越えられていくのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」とあります。この聖書でいうところの平和というのは、戦争のない平穏な状況ということは異なります。そういうことから一歩進んで、お互い赦し合い、愛し合って生きる。そこまでパウロの語る平和というのは、踏み込んでいます。その平和をつくり出すために、天の父なる神が愛する御子イエス・キリストを十字架にかけるというまことに大きな犠牲を払われたということなのです。

 本日の説教の題として、「キリストにおいて一つ」という題を設けました。これは聖書の小見出しにも「キリストにおいて一つとなる」とあります。お互い対立を乗り越えて、一つになるということですが、この一つになるというのは、何か精神的な意味でここでパウロは述べているのではありません。そのことを今日の皆さんと読んでいる手紙の後半のところで、パウロは示しています。19節から20節にかけて、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり・・・」とあります。ここで初めて異邦人とユダヤ人が一つにされうる根拠が明らかにされるのです。異邦人であろうと、そうでない場合であろうと、キリストにおいては、あなたたちも神の家族だとパウロは述べます。そしてその神の家族が住む家、それがまさにキリストの体である教会のことなのだとパウロは述べるのです。その土台として、使徒や預言者という人たちが土台となっていてくれる。そして、建物の隅に「隅の親石」とも言われている石を置いて、それを礎石にして土台をつくりその上に家を建てていく。ある学者によりますと、この石は、アーチ状の建築物があった場合の一番上の真ん中の石をも意味したそうです。一番てっぺんの石ですから、それがなくなってしまったら、全部バラバラになってしまう。土台の大切な石であるイエス・キリストという御方が、大切なそれがなくなったら教会でなくなってしまうほどの大事なかなめの石である、そうパウロは述べるのです。そして21節に、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」とあります。その聖なる神殿を構成する、一つ一つの石、切石と言いますが、切り出した一つの単位、切石の一つとしてわたしたちが教会で生きている。わたしたちが対立を越えて、聖なる神殿である教会の建物の、一つの構成要素として、組み上げられていく。ですから、わたしたちが対立を超えるということだけが、その目的なのではなくて、その聖なる神殿の石の一つとして、教会をキリストを土台として、要石として建て上げていく、教会もわたしたちも共に成長していくということが目的なのです。それが、パウロがここで言いたかったことなのです。最後の節ですが、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」とあります。この建物はもちろん、目に見える物質的なことを言ってるわけではなくて、霊的な建物、聖霊によって建てられる教会という建物のことです。キリストが要石になっていてくださるこの建物の建設に、あなたがたも共に関われと、招いておられます。もちろん、この建物の完成はわたしたちの力がなくても、全能の父なる神は、完成させてくださるのですが、神は弱いわたしたちがその建設に携わることを、むしろ喜んでいてくださるのです。この聖なる神殿が建てられるために、わたしたちは対立を越えて、一つにされる。対立が解消するということだけを目的にするのではなくて、聖なる神殿、キリストの体である教会を建て、そして成長させていく。そのためにわたしたちは教会に召されているわけです。そのことをわたしたちは求められています。キリストの中に、教会の中に生きる。そして教会の成長のため、自分たちの成長のためにも働く。これこそが、わたしたちの信仰者としての目指すべき生き方であり、求められる、あるべき信仰生活ということなのです。わたしたちは、そのことをしっかりと心に留めて、歩んでまいりましょう。

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