2024.7.7 聖霊降臨節第8主日礼拝 《教会創立記念・召天者記念礼拝》
ヨブ記 19章21~27節
コリントの信徒への手紙二 8章8節~15節
マルコによる福音書 5章1~10節
本日は、「コリントの信徒への手紙二」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
5章の1節に、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。」とあります。「地上の住みかである幕屋」というのは、わたしたちの肉体ということです。わたしたちがこの地上において、肉体を持って生きている。それをパウロは幕屋に例えているのです。幕屋というのはテントのことです。わたしたちの肉体が滅びても、神様によって建物が備えられている。その建物というのは、人の手で作られたものではない、天にある永遠の住みかだ、とパウロはここで述べているのです。それでは「天にある永遠の住みか」とはどういうことでしょうか。天と言いますのは、ここから地上何千メートル上空とかという高いところを指しているのではなく、救い主イエス・キリストがいらっしゃるところ、天の父なる神様がいらっしゃるところです。わたしたちも死んだら、そこにいらっしゃる神様のふところで終わりの日までそこにいるのです。それは聖書ではいろいろな言い方がなされており、神様の懐にいる、あるいはまた、陰府(よみ)の国で眠った状態にされているというようなことです。それは、いつまでなのかということが問題になるのですが、神様にとっての時間とは、わたしたちが過ごしている時間とは、別な時間を過ごしておられるということなのです。神様は永遠から永遠に生きて働いておられるのですから、一年とか何十年とか、そういう時間のスケールではない中で生きておられるのです。イエス・キリストが再び地上に来られる、その終わりの日までどのぐらいの時間がかかるのか、とわたしたちは疑問に思ってしまうのですが、神様にとってそれはわたしたちの感覚からすれば、ひょっとしたら一瞬なのかもしれません。とにかく、わたしたちが天に召された後、終わりの日まで神様の懐で、あるいは陰府の国と言われるところで、わたしたちは安らかに憩うていることができると考えられているのです。 ところで、今日のところの2節に「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」とあります。わたしたちがこの地上の生涯を生きるときには、決してうれしいこと、楽しいことばかりではありません。苦しいこと、悲しいことのほうがむしろが多い。そうであるならば、パウロがここで述べておりますように、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」とありますけれども、早くわたしたちがそのような苦しみ悲しみの多いこの地上の住みかではなく天の住みかに住みたい、と考えるのです。しかし、パウロはここで、わたしたちがこの地上からすぐにでも離れることが望ましいのだと言っているのではありません。あくまでわたしたちは、苦しみ悩みの多いこの地上の住みかである幕屋に、生きなければならない、そのことは逃れようのないことなのだ、とパウロは語るわけです。わたしたちが自らの命を絶つということでもない限り、わたしたちがいつ死ぬのかということは、誰にもわからない。それは神様しかわからないことです。しかしそのいつかわからない天に召されるそのときまで、あなたはどう生きるべきなのかということを、ここでパウロはわたしたちに示していてくれるのです。9節に「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と、パウロは述べています。わたしたちが生きる上で、大切にしなければいけないことは、主に喜ばれることなのだ、とパウロは申します。今日の聖書の箇所の前のところ、4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。わたしたちは生きていく中で、目に見えるものだけに、ほとんど心を奪われてしまいます。いくらわたしたちが健康で、この世にどれだけ多くの富を蓄えようとも、それらはいずれは必ず朽ちていくもの、なくなっていくものです。目に見えるものは、いずれなくなっていくものです。そうであるならば、わたしたちは目に見えないものに目を注いでいくべきなのです。わたしたちは、死ねば天に召されますが、終わりの日において、先に召された人たちとともに、復活の希望が与えられています。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストの十字架とご復活ということがあるからこそ、わたしたちも自分たちの復活を信じることができるのです。わたしたちが、主に喜ばれる者として生きようとするときに、わたしたちがこの地上で世間からどのように評価されるか、ということから自由になります。わたしたちが自分を見る、そして他人を見る目は、損得勘定によって測られていることが多いのです。自分のために利益になるとかならないとか、あの人は駄目な人で役に立たないとか、そういうこの世の損得勘定という物差しを基準にしてしまうようなことから自由になれるのです。なぜなら、愛というものは喜んで人のために損をすることだからです。見返りを求めないで、喜んで愛のために損をする。そのことこそを主は喜んでくださいます。それが、わたしたちの行動の基準となるのです。たとえこの世で全く評価されず、むしろ誤解されて非難されることがようなことがあっても、神様は全てのことをご存知です。わたしたちが主の復活の希望の中に生きるときに、目に見えないもの、永遠なるものにわたしたちが目を注ぐことができ、目に見えるものだけに捉えられていた自分から解放されるのです。この世の評価、評判がどうであろうとも、たとえわたしたちが誤解されるようなことがあっても、神様は全てをご存知です。天における永遠の命をもって、わたしたちに報いてくださいます。わたしたちは、神様を信じる者として、目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注いで、救いの完成を目指して、主に喜ばれることを第一として、神様を信頼して生きる者とされたいと思うのです。 閉じる