2024.6.2 聖霊降臨節第3主日礼拝
申命記 5章12~15節
コリントの信徒への手紙二 4章5~12節
マルコによる福音書 3章1~6節
本日は、「マルコによる福音書」を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。
本日皆さんと聴いてまいりますこの聖書の箇所ですが、安息日のことが中心になっています。安息日には仕事をしてはならないという規定でありました。なぜ安息日には、仕事をしてはならないのかということが問題なりますが、神様がこの世の全てのものを造られまして、六日の間にいろいろなものを造られました。七日目に神様が休まれた。だから、わたしたちも休まなければならないということと、もう一つの理由は、仕事を休むことによって、わたしたちが生きているのは、わたしたちが自分たちだけの力で生きているのではないということ、神様の恵みによってわたしたちは生かされているのだということを、この安息日に何もしない、仕事をしないということによって、わたしたちは改めてそのことを確認することができるのです。いわゆる律法学者やファリサイ派と呼ばれる人たちは、その元々の安息日の本来の意味、安息日を守る意味ということをどこかにやってしまって、その安息日の規定を守ることがだけを自己目的化してしまった。安息日を始め律法の規程を忠実に守るということを、最優先にしてしまったわけです。彼らは神様の律法をいかに忠実に守るか、ということに精力を注いでおりました。律法を守ることによってこそ、神の救いをいただけると彼らは信じていたのです。彼らは当時イスラエルで社会的な指導者でありました。人々にどうすれば神の救いを得られるかということを教えていた人たちでした。ですから安息日を始めとする律法の規定を守らない人たちを厳しく罪人とみなして裁いていたのです。そういうことが、今日のお話の前提になっています。律法学者やファリサイ派と呼ばれている人たちが、イエス・キリストとその弟子たちの言動に神経をとがらせていたのです。「イエス様が会堂にお入りになった。」と今日のところにあります。また「そこに片手の萎えた人がいた。」とあります。それがどんな病気だったかわかりません。生まれつきそうだったかもしれません。主イエスはその人を「真ん中に立ちなさい。」と呼びかけられます。そういう障がいを持った人たちは、できることならそういう人前に出るということは、できればしたくなかったはずです。しかし、主はそういう人をあえて皆のいる前に引っ張り出されました。それは皆の見てる前で、イエス様が救いの御業をなさるということお示しになるためだったのです。4節に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことが、殺すことか。」とあります。また5節に「イエスは怒って人々を見回し、「彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。」とあります。そして、その人が手を「伸ばすと、手は元どおりになった」のです。イエス・キリストが、その人の手を癒される。それは奇跡ということになります。奇跡物語は、福音書の各所にたくさん出て来ます。悪霊を追い出したり、病を癒したり、いろいろな奇跡をイエス様はなさいました。それは、そのこと自体はとても素晴らしいことですけれども、奇跡が示している意味を、わたしたちはしっかりと心に留めなければなりません。そのいろいろな障がいを持った人たち、悪霊にとりつかれた人たちが癒される、悪霊を追い出されるということは、そのことによって、イエス様がその人たちに、それを見ていた人たち、そしてわたしたちに「悔い改めて、わたしを信じなさい」とおっしゃっているということなのです。「悔い改めなさい。わたしこそ救い主だと信じなさい」という招きで呼びかけていてくださる。それが奇跡の持つ意味なのです。4節に安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことが、殺すことか。」とあります。イエス様はここで、安息日の決まりなどどうでもいいとおっしゃっているのではありません。さらに、あなた方は善を行いなさいと。律法守ることよりも、あなたたちは良いことをしなさいとおっしゃっているのか。そういうことでもありません。イエス様はそういうことだけを求めておられるのではない。安息日の決まりよりも大切なこと、(良いことをすることも大事なのですけれども)、それよりも、「悔い改めて、わたしを信じなさい」というイエス様の招きにお応えするということをこの奇跡によって、わたしたちに求めておられるのです。イエス様は、その救い主として生きられたそのご生涯の最後に、十字架にかけられて殺されてしまいます。今日のところの最後に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。律法を守ることよりも、「悔い改めて、わたしを信じなさい」と人々を招かれた主イエスは、最終的に十字架にかけられて殺されてしまいます。それは人間の大きな罪の極致が、ここにその十字架に表されているわけですが、その人間の大きな罪を、イエス様が背負われて、その赦しのためにご自身が十字架にかかってくださったということが、聖書の教えとして最も大切なこと、すなわち救いの御業としてわたしたちに示されているのです。イエス様はただ死なれただけではなく、死と罪の力に打ち勝たれて三日目によみがえられる。その大きな救いの御業が、歴史的な事実として起こっているということは、わたしたちは信仰の中心的な事柄として、深く心に留めなければいけません。それは安息日に手の萎えた人を癒すという救いの御業よりもはるかに大きな出来事です。そのことにわたしたちは、深く感謝して歩まなければいけません。そして主イエスが、命をかけてわたしたちに呼びかけておられる言葉、「悔い改めて、わたしを信じなさい」という、その招きにわたしたちは喜びをもって、感謝してお応えしていかなければならないのです。それがまさにわたしたちの救いです。そのことをしっかりとわたしたちは心に留めて、神に感謝して歩めるように祈ってまいりましょう。 閉じる