2024.4.28 復活節第5主日礼拝
詩編 第22篇25~32節
ヨハネの手紙一 第3章18~24節
ヨハネによる福音書 第15章1~8節
                          

「わたしにつながっていなさい」

本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いてまいります聖書の箇所は、イエス・キリストが弟子たちに向けてなさった説教の一部です。その中で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と弟子たちに語られます。

 「わたしはまことのぶどうの木」であると主イエスはご自身を比喩で表しておられます。ぶどうの木には、枝があります。ぶどうの実を育てるために農夫はぶどうの木を育てるのです。主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝なのだ」とおっしゃいます。枝であるあなたがたは、木の幹であるわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができません。もちろん枝だけで実を結ぶことはできません。木から養分をもらわなければ、ぶどうの実は実ることはできないのです。しかも、イエス・キリストは「ぶどうの木であるわたしにつながっていれば、豊かに実を結ぶ」ともおっしゃいます。また、手入れをなさるのは農夫であられる天の父なる神様がそのようにしてくださるのだ、とおっしゃるのです。「豊かな実を結ぶように、わたしにつながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。ここでわたしたちが注意しなければならないことは、すでに枝がぶどうの木につながっている、ということなのです。「あなたがたはその枝である」と例えられたわたしたちが、キリストにつながっている。わたしたちが、これこれの働きをしたからキリストの枝とされて、豊かに実を結ぶようになれたということではありません。すでにわたしたちはキリストにつながっているということなのです。このキリストにつながっているということはどういうことでしょうか。聖書に「教会はキリストの体である」と書いてある通り(エフェソ1章23節)、キリストにつながるということは教会につながっていることなのです。「教会がキリストの体である」ということは、教会がキリストであるということでもあるのです。「キリストにつながる」とは「キリストの体である教会につながるということでもあるのです。

 「キリストにつながっていれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ」と主イエスはおっしゃいます。しかし、豊かに実を結ぶようになるには、わたしたちの努力によるということだけではありません。もちろんそれも大切なのですが、主イエスがおっしゃっているのは、農夫であられる天のなる神様が手入れをなさるからあなたがたは豊かに実を結ぶようになるのだ、とおっしゃるのです。

 それでは、わたしたちが「豊かな実を結ぶ」ということはどういうことなのでしょうか。豊かな実を結んでいくということ、最初は花が咲いてそれが受粉して、少しずつ大きくなっていくということは、わたしたちは常識として知っています。実はいきなり熟した実になるわけではありません。太陽の光や水や養分を吸収して、農夫が手入れしてくれて、肥料をやって剪定をしたりして大きな実を結ぶということなのです。それは成長すると言ってもいいと思います。ここで言う「豊かな実を結ぶ」というのは、信仰の成長ということなのです。

 わたしたちが教会に通い始めた頃は、いろいろなことがよくわからなかったはずです。聖書のこともよくわからない。それが教会に連なって、礼拝をお献げしていくうちに、み言葉の意味がわかるようになっていく。そして、教会につながる兄弟姉妹との交わりを深めて行く。その中でわたしたちが聖書に記されたみ言葉を自分のものとしていくことができるのです。もちろんわたしたちは罪人であり、欠けの多い者ですから、教会の兄弟姉妹との間にいろんなことがある。感情の行き違いがあったり、お互い傷つけ合ったりすることもあるでしょう。ときには教会の中に分裂が起きてしまうこともある。しかしその教会の中に、キリストがともにいてくださり、聖霊の力を注いでくださる。そのことによって、わたしたちの中に様々な行き違いや、いさかいがあったとしても、み言葉を命の糧として、わたしたちがその困難を乗り越えていくことができるようになるのです。み言葉を聴くことによって、そのような困難な状況を乗り越えていく。それはもちろんわたしたちの努力もあるわけですが、乗り越えさせてくださる御方がいらっしゃる。聖霊の力が働いて、わたしたちに乗り越える力を与えてくださる。そして、困難を乗り越えるごとにわたしたちは成長させていただけるのです。それが「豊かに実を結ぶ」ということなのです。

 ところで、6節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とあります。この「ヨハネによる福音書」が書かれた当時、主イエスが亡くなられてから何年経つのか正確にわかりませんが、五十年とか、四十年という時期だったのでしょう。キリストの教会はすでにありまして、様々な迫害に見舞われていたのです。その中で、教会から脱落していく人、離れていく人が結構出ていました。そういう状況の中での警告という意味もあったと思います。これは裁きの言葉にも聴こえますが、しかし、主イエスがここでおっしゃっているのは、わたしたちに対する警告とともに、離れないでわたしにつながっていなさい、教会につながっていなさいとの励ましということなのです。教会につながっていなければ、地獄に落ちるぞ、というような警告では決してなくて、困難の中にあっても、お互い愛し合って教会につながっていなさいとの主イエスの励ましなのです。キリストにつながっていれば、教会にしっかりとつながっていれば、あなたがたは豊かな実を結ぶ。実を結ぶことができるように、神様がわたしたちのために手入れをしてくださる、わたしたちを養い、支え導いてくださるのです。

 「わたしにつながっていなさい」と、主イエスはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちがキリストから離れて、枯れてしまうことがないように、豊かな実を結ばせていただけるように、わたしたちはその主の呼びかけ、励ましに応えて、主を信じ、祈りつつ希望をもって歩んでまいりましょう。

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